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第6話 歌える場所
翌日の夕方、アトラボ五階のスタジオには、相沢と凪と高澤がいた。
窓のない部屋は、外の時間から少し切り離されている。卓の上にはノートPCと小さなミキサー。モニターには、まだ仮のままの音源データが開いていた。中央にはマイクが一本だけ立ち、録音ランプは消えたまま待っている。
凪は壁にもたれたまま、相沢の顔を見た。
「寝てない顔だな」
「寝た」
「何時間」
相沢が答えないでいると、高澤もこちらを見た。
「無理をしているなら、今日は中止でいい」
「大丈夫。曲はできた」
その一言で、凪が壁から背を離した。
「できたのか」
「仮だけど」
相沢はPCを操作した。
最初に流したのは、相沢自身が入れたガイドだった。
声は抑えてある。歌として聞かせるためではなく、旋律の位置を示すためだけのものだ。
それでも、普通に聞けば少し歪んでいる。
上がるはずのところでわずかに届かず、落ちるところは必要以上に低い。きれいにつながるはずの音が、一度どこかへ逃げてから戻ってくる。
凪の眉が寄った。
「相沢が歌っても変だな」
「そうなるように作った」
高澤は黙って聞いている。
一度目は最後まで口を挟まなかった。
二度目、相沢がもう一度ガイドを流すと、高澤は画面の歌詞を見ながら、ところどころ小さく声を重ねた。
まだ合わない。
けれど、前にFluctuation Crossを歌った時ほど離れなかった。
相沢はその声を聞きながら、三日間置いてきた音の位置を頭の中で確かめる。
下がる場所も、上がりきらない場所も、その癖に合わせて旋律の方を先にずらしてある。
三度目の前に、高澤がマイクへ手を伸ばした。
「もういい」
相沢が顔を上げる。
「覚えた?」
「完全ではない」
「じゃあ、もう一回聞く?」
「いや。歌った方が分かる」
高澤らしい答えだった。
相沢は少し笑って、録音の準備をした。
高澤がマイクの前へ立つ。
凪はさっきまでより少しだけ前へ出て、壁から離れていた。
イントロが流れる。
高澤が歌い出した。
相沢の手が止まった。
いつもの癖で、声が少し下がる。
そこには、もう音が置いてある。
次は上がりきらない。
その場所にも、旋律の方が先に待っている。
外れるはずだった声が、外れない。
高澤の声が、相沢の作った音の中へ自然に収まっていく。
隣で、凪の笑いが消えた。
相沢もモニターから目を離せなかった。
高澤の声は、思っていたよりまっすぐだった。言葉がはっきり届き、リズムも崩れない。余計な飾りもない。
今まで外れた音程に隠れていたものが、そのまま前へ出てくる。
曲が終わり、スタジオに静けさが戻った。
モニターには録音された波形だけが残っていた。
「どうだ」
高澤はまだマイクの前に立っている。
相沢はすぐに答えられなかった。
先に凪が口を開いた。
「……相沢、すげぇな」
高澤の眉が寄る。
「評価対象は俺の歌唱ではないのか」
凪が少し笑った。
「高澤も合ってた」
相沢も頷く。
「うん。ちゃんと合ってた」
高澤の顔から、わずかに力が抜けた。
「改善しているな」
凪が何か言いかける。
相沢は視線だけで止めた。
凪は黙った。
直したわけではない。
けれど、今の声がよかったことは本当だった。
相沢は録音データを保存する。
ずらして置いた音の上に、高澤の声がきれいに残っていた。
しばらく画面を見たあと、相沢は口を開いた。
「これ、俺の個人チャンネルで出してもいい?」
高澤がマイクを置き、こちらを見る。
「公開するのか?」
相沢はモニターへ視線を戻した。
仕事でもないのに、三日間、夜になるたび音を触った。
高澤が下がる場所を覚え、届かないところを探し、そこへ先に音を置いた。
全部を言う気はなかった。
「いつもより、めちゃくちゃ頑張って作った曲だから」
高澤は少しだけ黙った。
「そうか」
「うん」
「なら、出していい」
凪は何も言わず、相沢は録音された波形へ視線を戻した。
まだ公開できる形ではない。歌詞も仮で、音も整っていない。
それでも、高澤の声はもうここにある。
高澤自身が、この音を外へ出していいと言った。
相沢は保存名の欄を開いた。
《高澤用》
一度だけ打ち込む。
その文字を見てから、消した。
少し考えて、別の名前を入れる。
まだ誰にも見せないタイトルだった。
誰のために作った音なのかだけは、名前に残さなくても分かっていた。
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