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第1話

 ラジオ局の4階、エレベーター前で腕を組む男がいた。ぴっちりと肌にまとわりつくフェイクレザーのパンツはさながらロックスターのようだが、光(ひかる)は歌いながら踊る割と自由なポップ・ミュージシャンであった。  彼はうんうんと唸り声をあげながら、今まさに研究に行き詰まっている博士のようにあご下まであるウェーヴィーな黒髪を揺らしていた。  本日泊まる宿がない。先ほど気づいたこの事実に光は足を止める他なかった。必死に考えないようにしていたツケが回ってきたのである。面倒なことは先延ばしにするのが彼の悪い癖であった。  どうしようか、ホテルに泊まるのが定説のような気がするが、一人でビジネスホテルに泊まるのも味気ない。いっそのことラブホテルにでも泊まってみるか?  いままでそのようなところにお世話になったことのない光は、思ってもみなかったタイミングで機会が訪れたことに少し興奮する。  それは母親の目を盗んで、メイクポーチに入っていた口紅を見よう見真似で自身の唇に塗りたくるような背徳感と高揚感の混ざった感情に似ていた。罪悪感? そんなものはこの男にはない。とにかく目の前の楽しそうなものに参加したい、そんなところである。誰かと一緒に夜を過ごしたければ、後腐れない相手のもとに転がり込んでいることもよくあった。  そんな生き当たりばったりの人生におおむね満足していたのに、いろいろあって家主が寝ている間にこっそりと居座っていたマンションを飛び出したのが今朝のこと。まぁ、便利だと思ってサブスクに登録したら一年も経たないうちに使わなくなって期限切れを待っていたのに自動更新だったから案外解約が面倒だったみたいなことである。  そんなことを長々と考えていた光の背後から歳の割には張りのある、パーソナリティーで鍛えられたであろう声が聞こえてきた。 「どうしたの?」 「んー今日泊まるところどうしようかなぁって」  そこまで言って光は聞こえてきた声の主、雪野のおっさんこと、雪野(ゆきの)隆敏(たかとし)を見やる。彼は光が新人の頃からお世話になっている日本音楽業界の大御所である。しかし、気さくで付き人なんかもほとんどおらずブラブラと気の向くままに行動している変なおっさんであった。 「家なき光なの?」 「なんでもない」 「なんでもなくないでしょ、助けてって顔にかいてあるよ」  できればこの人にだけは頼りたくないものだと光は思ったが、何か案はないかと一応聞いておくことにした。 「なんかいい方法あるの?」 「んー、本当はうちに泊めてあげたいところだけど、」 「それは遠慮します」  光は食い気味に言う。 「待って待って、続きを聞いてあげて」  懇願するように雪野のおっさんが言うので光は先を促してあげることにした。 「何?」 「うちは妻と小さい子どもたちがいるからな。ひかるん、子ども苦手でしょ?」  子どもは、害はない。なんか生き物がいる程度には接することはできる。光は率直にそう思った。  しかし、遊び方がわからない。  自分が子どもの頃にたいして遊んでもらった記憶なんてない光には、どうすることで子供時代を楽しいものにすることができるのかどうしても理解できなかったのである。 「嫌いじゃない、好きでもない」 「でしょ? だから、ここはどうかなって」  そう言って雪野のおっさんが人差し指と中指で挟んでさながらマジシャンのようにシュッと差し出したのは、“ラグジュアリーホテル特別宿泊券”なるものであった。  光はそれを受け取り感心する。 「へぇ、こんなのあるんだ、おっさんもたまにはやるね」 「でしょ? 友人の結婚式の返礼品としてもらったものだから気兼ねなく使ってよ」 「でもこれペアって書かれてるよ?」 「僕の分も楽しんできてよ」  光に手土産を置いておっさんはやってきたエレベーターに乗り込んでいく。  その後ろ姿はさながら敵かと思ったら本当は敵地に一人潜入して内側から壊滅させようと味方のために奮闘していた健気なシルバーヒーローのようだった。  (なんかいいものもらっちゃった。高級ホテル、しかもスイートルームだよ)  らんららんらら~ん  と、光は200年はそこに居座ってるであろうパリのオスマン建築の螺旋階段をかけ下りるような気持ちで日本の古ビルを後にするのだった。 「ほぉぉぉぉおっ!! 広~い、綺麗、ゴージャス」  光はホテルに着いて、初めて泊まるスイートルームの部屋の中を隅々まで見て回る。  リビングルームはグレージュの家具で統一されたラグジュアリー空間、ところどころに映える黄色いクッションはさまざまなデザインがある。かわいい。  お風呂場は正面に白いバスタブ、なぜか都会のきらびやかで壮大な夜景が窓ガラス越しに見えている。  右側にシャワー室、なんか上から降ってくる滝に打たれるようなシャワーまで付いてる。  洗面台も広く、蛇口は2つある。トイレも当たり前のように2つあるのに、ベッドはキングサイズのひとつだけ。  光はとりあえずそのおっきなひろーいベッドにぼふっとダイブした。それはバウンドすることなく、そのまま沈むように彼を迎え入れる。思った以上の低反発に拍子抜けしながらこれがスイートなのかと納得した。 「なんかないっかなー」  光はさっそく暇をもて余す。  彼がベッド周りを見渡すと、サイドのテーブルになにか置かれていた。  (お、これはなんだ?)  それはスイートルーム以上の部屋に泊まってる客専用のラウンジの案内パンフレットである。  何分経っても暇な光は、ちょっくら行ってみるかと決意し、部屋を出てエレベーターに乗り込む。2つ下の階のボタンを押すと、チンッとドアが開く。すると、降りてすぐ左側にコンシェルジュが控えていた。 「いらっしゃいませ、こちらに専用カード、もしくはアプリの会員コードの提示をお願い致します」  (会員コードだと? 無いな)  光は招待された身なので、会員ではない。  (どうしよう、たぶん専用カードってあのパンフレットに付いてたあれだよね)  彼は家電を買っても説明書は読まないタイプだ。つまり、パンフレットも適当にその辺に投げ置いてきたのである。  (なんてこった、入れないのか。ここまで来たのにまた部屋に戻るの? 今日はもういいや、このまま部屋に戻って寝よう)  そう思って彼が引き返そうとしたそのとき、さらりと上質な素材を使用したサテンのような声が後ろから響いた。 「僕の連れだよ」  という英語で発せられた声とともにやって来た男が光の肩に手を置く。  振り向くと、そこにはカジュアルフォーマルな装いで優しそうに細まって垂れ下がった目尻が印象的な男が立っていた。歳は光の見立てで40代半ばくらい。  (あ、この人さっき一緒のエレベーターに乗ってた人だ)  みずみずしいフルーツの香りと土のような温かみのある大人な香りで光は気付く。 「先に行くなんてひどいじゃないか、ハニー」  足元は当然のように革靴で、サンドストーンなオレンジ色のセットアップにインナーはサンドベージュでまとまりが良く、アクセントでえんじのスカーフが首元から見えていた。  スタイリング剤で後ろに流した長めの髪の毛は茶色混じりのブロンドで、全体的にかんぴょうみたいだなと光は思っていた。  (うん、合格)  そこまで見て光はその男の甘い嘘に乗っかることにしたのであった。男の肩に手を滑らせるとそのまま身体を近付けて白々しくもはっきりと告げる。 「そうです、この人と一緒に来ました。僕早く中に入りたいです」  すると、男はスマホを取り出し画面をコンシェルジュに見せる。 「君、これでいいかな」 「はい、ログイン完了いたしました。それでは、いってらっしゃいませ」  恭しく頭を下げられたので、光も感謝を告げる。 「ありがとうございます」  そして、難なく中に侵入……ではなく入室することができた光が、ふっふっふっとにやつきを抑えられずにいたところで横から声をかけられた。 「なんだか楽しそうだね、もしかしてラウンジ初めて?」 「え? まぁはいそうです。助けていただいてありがとうございました。では」  すっとくっついていた身体を男から離すと、ぺこりと90度のお辞儀を男に返し去る体勢に入る光。 「あー待って待って」  しかし、すかさず引き止められる。 「なんでしょうか、お金でしょうか」 「そんなの足りに足りてるよ」  男がわざとらしく眉を上げて答える。 「じゃあ、なに……」  そこまで言ったところで、すっと男の手が光の腰に回った。 「一杯付き合ってよ」  助けてもらった手前、無碍に断るわけにもいかない。自由に生きてきた光にも礼儀や情というものはある。  数十分後 「アメリカ出身なんだ?」  男の名はアンジェロ。  ラウンジ内に用意されたあらゆるスイーツを片っ端から皿に盛り、ルビー色のソファーに腰かける光にアンジェロが答える。 「そうだよ。母はイタリア系でね父がコーヒーを入れて欲しいって頼むと有無を言わさずエスプレッソだったらしい」 「濃いね、お父さん大丈夫だった?」 「父はしぶしぶ自分でお湯を入れてそれをアメリカーノにしてたらしいよ」 「あははっ! 最初から自分でやればいいのに」  昔はアメリカも夫が外で働き、妻が家事や子育てをする役割分担が一般的だったことは光がこの日学んだことのひとつである。 「それは父のプライドが許さなかったみたい、うちの父は母にコーヒーを入れてもらうその時間自体が好きだったから」  夫婦の間でのいろいろな攻防を想像して光の顔から思わず笑みがこぼれた。  (両親がいたらそんな感じだったのだろうか)  光の母は寝込むことが多く、父は彼が物心付いたときにはいなかった。  彼は考えてもどうしようもないことを同時に想像して自分に芽生えた家族に対する憧れに近いものを冷静に感じとる。  (嫌だな。心臓が重くなる) 「光もコーヒー飲むかい? そんなに甘いものばかり食べていたら別の味も試したくなるだろう。ん?」  とろっと甘いアンジェロの瞳の中にはピリッとしたジンジャーのような刺激があるのを光は目に留める。  (さわやかだな、大人の男ってこういう人を言うのかな。いいな)  光は少しだけ腰を浮かせアンジェロが座るすぐ横へとすっと近づき苺のように可憐で美味しそうな口を開く。 「僕、苦いの嫌いなの」 「僕の手にかかれば苦いものも甘くなるよ」  アンジェロは目を細めて飲んでいたコーヒーをローテーブルの上に置くと、その流れのまま光の脚のラインをするーっと片手でなぞった。  ラウンジを出ようと、エレベーターの前に並んで立つ二人。  その間もアンジェロは光に何気ない会話の種を預ける。二人は和やかな会話の花を咲かせ合う。  チンッと到着したエレベーターへとアンジェロが乗り、それに続いて光も箱へと乗り込んでゆく。  徐々に、扉が、閉まり始める。  閉まるよ、閉まる。  瞬間、  グイッ光の肩を包み込むように引くアンジェロ。そのまま彼を密室の壁に押し付ける。  肩を掴む手が、光の耳へと移動し、大きな手で両側から彼の顔を包むように挟む。少し斜めに傾けた唇で光の唇に齧りつく。最初は勢いよく食べ進めていき、落ち着いた頃にまるで苺を摘み取るように優しく、赤い舌に同じくらい赤い果実が味わわれていく。  大きくれろれろと動きまわる舌がぐにゅっと押し付けられ蜜汁を吸い上げる。  そのとき、チンッと音を立てて2つ上の階にたどり着いた。  アンジェロがふっと笑い光から離れていく。首もとのスカーフを緩めてフォークのような視線で赤く小ぶりな果実を刺して引き上げた。持ち帰り用である。

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