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前編

1・憐れみ 「シドニー・C・ハイド様ですか?」  警備員の問いかけに、男はうなずいた。 「ミドル・ネームはなんの略で?」 「クリス」 「結構です。ご職業は……私立探偵?」  警備員は眉間にかすかな不穏の色を浮かべたが、黒いマスクの向こうでハイドの青い瞳は和やかだった。 「探偵だが、警察とはなんの関係もない。……ほら」  彼がスーツの胸元から取りだした赤い厚紙を受けとって、警備員はためつすがめつした。 「たしかに、参加証です」 「ここで見聞きしたことは黙秘するよ。主催者にもそう誓ってある」  ハイドが念を押すと警備員は虚ろな視線を探偵に向けた。 「あなたがもし警察と関係しているなら、ここへ来られたことを後悔しますよ」  彼は背後にある左手の扉を白い手袋を嵌めた手で指した。 「七番フロアへどうぞ」  金のプレートに大きく七と刻印された扉を開けると、白い部屋は人の熱気に蒸していた。天井から吊り下げられたシャンデリアが変幻自在の光を投げかける中、マスクをした男女がそこここに固まっている。老いた者からごく若い者まで、美しく贅をこらして着飾り、口元に微笑みを浮かべてサーヴされた飲みものを口に運んでいた。全員が目元に黒い絹のマスクをつけ、さながら秘密の舞踏会だ。  その印象は間違っていない。この場は年に一回開かれる、最上級の富裕層をターゲットにしたなんでもありのオークション会場だった。  ハイドも軽いシャンパンを受けとり、人と人のあいだにすべりこんで壁を背に立つ。部屋は広いが、大聖堂のように、とまではいかない。天井が高く、等間隔に白い柱が立ち並び、そのあいだを縫ってほのかな香の匂いが漂っている。教会でいうと祭壇のある場所に、床から二段ほど高くなった半円形のステージがあった。その前には金のポールが並び、緋色の太いロープが張りめぐらされて厳かだった。祭壇を臨むように、椅子が教会のベンチのごとく配置されている。  腰を下ろしている者もいるが、大半は並んだ椅子の後方や壁際で突っ立っていた。熱っぽく、こそこそ話している者もいる。椅子に座っている者はたいてい一人で、膝に広げた手帳を覗きこんでいる。きっと落札するもののナンバーを見返して、予算について検討しているのだろう。  シャンパンを飲みながら、ハイドは参加者をそれとなく観察した。彼が知った顔は一つもない。それももっともだ、とハイドは思う。社交欄をにぎわしたり、貴族名鑑に載るような名士など、こんな怪しい場所に顔を出すはずがない。  オークションの運営は「クリーン」で、収益は社会奉仕にまわしている。そう公には言われているが、バックには得体の知れない福祉団体がついている。どうやら犯罪シンジケートが複数でこの団体を運営しているらしいが……。  オークションは極秘性で、マスク着用。完全に管理され、安全を守られ、後日強請り屋が来ないと保証されている。その保証は真実らしい。しかし、客同士ではなにかと詮索がある。弱みを握られることもある。だからこのオークションは、きらびやかに着飾った人々が代理として集ってくる。  ハイドもこうした代理人の一人だった。  それにしても、裏社会で見知った顔もいないとは。きっとそういう名の知れた犯罪者たちは、目立たぬ側近を送りこんでいるのだろう。ハイドはそう考えた。しかし、全員が善男善女という雰囲気だ。それでも、オークションに出品されるのは常軌を逸したものばかりだという。探偵はあたりを眺めまわして、自分が愉しみはじめていることを感じた。  ステージの脇でずんぐりした中年男が声を張りあげている。 「皆さま、もう間もなく準備が整います。どうぞお席のほうに……」  二十五名の参加者は決められた自分の席にきちんと腰を下ろした。ハイドは前列から二番目の右端のほうだった。若い女が彼の膝をまたいで、隣の席に着く。甘い香水の香りがふわりと漂った。ハイドは参加証を手に取って、眺めた。  名前と性別と年齢、職業の下に、アルファベットと数字が記載されている。本日彼が競売に参加予定の「出品物」、その番号だ。L二十六。これだけではなにかわからないが、会場にカタログなどはない。ハイドも出品物がなにかは知らなかった。ただ、代理を頼んできた人物に「L二十六を落とせ」とだけ言われている。このオークションは基本的に、全員があらかじめパンフレットで出品物の内容を知らされていた。落としたいものがあればその番号を主催者に申請し、それだけを目指して落札するようになっていた。だから自分が落札したいものにしか興味がなければ、他の競売のあいだは参加せずともよい。とはいえ飛び入りも歓迎されていて、出品物が思わぬところに落ち着くこともある。  照明が落とされ、部屋がわずかに暗くなった。反対になにもないステージの上に明るさが増す。ずんぐりした進行係の男が声を張りあげた。 「それでは皆さま、今からオークションが開始されます。ご入札の際は椅子に置いてあります、みなさま各人の番号プレートをお上げください。それでは……」  しんとした部屋の中、ステージ背後の扉が開いた。男が緋色の覆いを掛けた銀のワゴンを押して中に入ってくると、重い音を立てながらスロープをのぼりはじめた。  全員がマスクの下で、じっとこのワゴンを見ていた。一九〇六年、二月の末日のことだった。 ○  ハイドが今回依頼を受けた相手は亡父の友人、アーサー・レインという男だった。もう七十に近い老人で、痩せて干からびている。しかし背が高く、皺が重なった鷲のような顔立ちは、かつては相当の美男であったことをうかがわせた。  レインの邸宅を訪ねていったハイドは、広い庭に臨む客間に通された。大きなフランス窓の向こうに枯れた噴水が見える。噴水盤は色が白から象牙色に変わり、ヒビが入っていたが、しかし丁寧に補修されていた。通された、古びた重々しいつくりの家具が並ぶ客間も噴水盤と似た雰囲気だ。さらに、主人であるレインの雰囲気もまた似かよっていた。  過去の遺物、しかし丁寧に手入れされて生きながらえている。  スプリングが緩くなったソファに腰を下ろし、ハイドはレインと対面した。老人は車椅子に腰を下ろし、膝に毛布を掛けていた。歩けない自分を恥じているようだった。彼は灰色の目を上げてハイドを見つめた。 「いくつになったかな、シドニー」 「四十一です、サー・アーサー」  ハイドが答えると、レインはフクロウのように首を上下させた。 「きみがまだほんの赤子だったころだ。顔を見たのは。四十一年も経ったとはな」 「ぼくも驚いていますよ」  ハイドが穏やかに答えると、レインは白い眉の下からちらりと彼を見た。 「死んだ父親のように飄々としているな、きみは。しかし顔はいちばん上の、なんと言ったかな……アイザックのほうが似ているんではないかな?」 「そうです。兄はそっくりですよ。性格はまったく違いますが」 「なんにせよ、きみの父親はきみたち三人を誇りに思っていたはずだよ」  どうですかね、とハイドは思った。絶世の美男に生まれつき、寝室を愛し女遊びに明け暮れていた父が、その結果として産まれた子どもにそれほどの興味を持っていたとは思い難かった。それでも父に似た美男で責任感が強く、なんでも任せられるアイザックと、オックスフォードの大学教授になった知的なフレデリックのことは、それなりに自慢に思っていたかもしれない。  しかしおれは、とハイドは思う。そもそも産まれた初めから興味を持たれていなかった。それも、乳母を除いた家族全員から。そしてこんなことを言いだしたレインはもちろん。彼が話のとっかかりを探しているということがハイドにはわかっていた。 「それで結局……」車椅子の中で身じろぎして、レインは言った。「家の諸々はアイザックが継いだ。そしてきみはなにになったか? 私立探偵だ。驚くべき零落ぶりだな」  ハイドは穏やかな表情でかすかに微笑んだ。レインは車椅子のアームを長い人差し指で叩いた。透明なマニュキアを施した爪が光る。 「しかし、都合がいい」レインは言った。「きみに依頼したいことがあるからな」  老人は値踏みするように目の前の男を見据えた。  まだ四十一歳なのに、ハイドの豊かな黒髪はもう半ば白髪になっている。父親ゆずりだ。薄青い瞳は母親ゆずり。彫りの深さは一族の男児共通だ。抜きん出て上背があり、逞しいところは父親を思いださせる。まったく、いかれた男だったとレインは思う。女しか目に入らない男だった。そのために金を使い、問題を巻き起こした。今でもアイザックがあの家を維持できているのが不思議なくらいだ。もちろん、アイザックは優秀だ。しかし……。レインが言った。 「きみも優秀な探偵だと聞いているぞ、シドニー。それにどんな秘密も必ず守る。そうだな?」 「そうです。しかし」ハイドは柔らかく先手を打った。 「法に抵触する秘密については、お約束できない場合があります」 「むしろ、約束できる場合があると?」 「状況によります。例えば、この国では男同士が肉体関係を持つと法に触れる。しかし、仮にある男が殺人の嫌疑をかけられた場合。彼が恋人の男とベッドで過ごしていたというアリバイを証明したら、嫌疑から逃れられる。しかし別の容疑で捕まり、社会的には抹殺されます。しかたないことかもしれないが……代償が大きすぎると思うんです。そんなときは、この依頼人が殺人で無罪になり、なおかつ同性愛の罪でも捕まらないようにします」 「融通がきくわけか? それでおまえ自身が悪事の片棒を担ぐことになっても?」 「そうですね。ただ、極力そんなことはしたくない」 「わたしの依頼も法に触れるよ」  レインは灰色の目でじっとハイドを見つめた。探偵は身じろぎしない。老人は鼻を鳴らした。 「だがな、たいした法じゃない。破るためにあるルール、と考えたまえ」 「強気ですね」 「もう、怖いものなどないさ」  レインはつぶやいた。 「いいかシドニー、準備は整えてある。わたしの代わりにあるオークションに出席してほしい。そしてあるものを必ず落札してほしいんだ」 「あるものとは?」 「内容はそのときまで伏せる。なに、ただ値を釣りあげ、金を払えばいい。どんなことをしてもかまわない。必ず落としてくれ」  そう言った瞬間、レインは自分の胸元を握りしめた。目を閉じて顔を激しく歪める。額に血管が浮きあがった。ハイドが腰を浮かせると、レインはそれを手で制した。そして、しわがれた声ではっきりと命じた。 「いいな? 必ず落とすんだ」 ◯  これは探偵の仕事とは思えないが、と冷静に考えながら、しかしハイドは従った。亡父の友人なら断れない。特に、父親が病床に伏せていた晩年、唯一見舞いに通ってくれた人物とあっては。アイザックから「依頼を受けろ」と命じられていたのでなおさらだった。  オークションはよどみなく進んだ。見世物としてはすばらしかった。出品されていたのは双頭の仔牛の剥製や、蝋でできた等身大の人魚。十八世紀中期に造られた、今でも動く貴婦人の自動人形。目が動き、腕に抱いた金魚鉢の中の泳ぐ金魚を眺めている。人を十七人殺した幽霊屋敷から剥がされた、淡いグリーンの腰板。マリー・アントワネットが着たとされる白いネグリジェ。数年前に盗難に遭った絵と酷似した油絵。説明によると、それは盗品の「対の」絵だそうだ。  参加者はみんな自らのプレートを掲げ、軽く片手を挙げて司会の男の気を引こうとする。そんなしぐさも上品で、がつがつしたところなど皆無だ。全員、美術館のソファに腰を下ろして、学芸員の説明を静かに聞いているかのようだった。唯一、マスクの下の目の輝きと、紅潮した頬がその熱中ぶりをうかがわせる。  ハイドも興味を持ってオークションのなりゆきを見守っていた。隣の席の若い淑女が積極的で、値を釣りあげどんどん落札していく。落とせなかったときは可愛らしく小さなため息をつき、首を横に振っていた。  しかし、いつになってもハイドが待っているL二十六の番にならない。結局、一時間半待ってもステージには登場しなかった。  オークションが休憩になったとき、姿勢のいい軍人のような男がやってきて、ハイドの肘に後ろからそっと触れた。 「ミスター・ハイドですか? 参加者ナンバー三十七番の?」  ハイドがそうだと言うと、男は慇懃に言った。 「ご案内が遅くなり申し訳ありません。地下のお部屋へどうぞ」  男に案内され、ハイドは一度オークションを催している建物から出た。あたりは暗く、空気の中に閉ざされるような冷気を感じる。白い息を吐きながら隣の建物に移った。  まるで個人の邸宅のような建物だった。玄関ホールは広く、天井には濃い色に変色した木の太い梁が渡してあった。木目のくっきりした床には濃いグレーの敷物が敷いてある。突き当たりの壁には口をレンガで塞がれた暖炉があり、ハイドはその上に中国風の大きな絵皿が飾られているのを見た。まるで隠棲している貴族の別荘のようだ、うちの兄貴たちが持っているような。彼はそう思った。  暖炉を挟んで、対になる形で扉が二つあった。ハイドを案内してきた男は右手の扉を開けた。すぐに階段になっており、地下へ続いている。階段はガス灯の明かりで照らされていた。  ハイドが地下室へ入ると、案内役は背後で扉を閉じた。 「ご参加の皆さま、揃われました」  その声で狭い部屋にひしめく人間たちが振り返った。十二人全員、男だった。  二十代半ばとおぼしき青年もいれば、五十代と見える、頭の禿げた男もいた。全員黒いマスクをつけ、むっつりと押し黙っている。彼らはそれぞれ席についた。ハイドも自分の席に腰を下ろす。先ほどいたオークション会場と間取りは同じだが、ステージは小さかった。それでも同じように金のポールが立てられ、緋色のロープが渡してある。  案内役の男はさりげなく外に出て扉の前に立った。いつの間にか、先ほどのオークション会場で司会をしていた、ずんぐりした男がステージの脇に立っている。 「それでは」司会は朗々と声を張り上げた。「お待たせいたしました。競売ナンバーL二十六でございます」  ステージの背後にある扉が開いた。そこから覗いた「商品」を目にした瞬間、ハイドの顔はかすかに凍りついた。  逞しい男に付き添われてステージにのぼったのは、若い男だった。  二十代とおぼしきその青年は、ステージに上がると視線を周囲に走らせた。寂とする男たちを鋭い目で見回したあと、視線を伏せる。ハイドは目を逸らせなかった。長身痩躯、騎士のように凛々しい面立ちの、とても美しい男だった。しかし顔は激しく青ざめて、口の端に切り傷がある。身につけている服は皺ひとつなく、一流の仕立てだった。  青年はふらつかずにステージの中央に立った。そのとき、ハイドは彼が両手に手錠を嵌められていることに気がついた。付き添って入ってきた見張りの男が見守るなか、青年は視線を上げた。 「女性のうちにもご要望があるかと存じますが、今回は出品者の意向により、殿方に限らせていただきます」  司会の男は丸っこい手で台本をめくった。 「ナンバーL二十六、商品名は『エドワード・ウィルクス』です。二十七歳、性具としてお使いください」淡々と声を張り上げる。「ある程度、調教済みです。乱暴な使用にも耐えます。病気は持っていません。女役――専門用語ではなんと言いましたか――に特化しています。これは備考ですが、ミスター・ウィルクスは男娼をしておりました。それを魅力とお思いいただけるなら、皆さま、入札を開始してください」  前から二番目の席に座る男が片手を挙げ、静かに尋ねた。 「いかなる使用にも耐える?」 「特別なお好みがございますか?」 「今、鞭でぶってもらうことはできないか?」  司会の男はちらりと見張りに目をやった。彼が首を振ると、司会はうなずいた。 「申し訳ありませんが、売り物ですので傷をつけることはいたしかねます。しかし、出品者は苛烈な仕打ちができる買い手を望んでおります。お買い上げいただいたのちは、ご自由にお使いください」  参加者の一人が自分のプレートを掲げ、入札を開始しようとした。司会の男はそれを見て、台本をめくり片手を挙げた。 「それから、ご留意していただきたいことをもう一つお伝えいたします。ミスター・ウィルクスに美食は必要ありません。しかし、血を与えていただく必要があります」  会場はにわかにざわめいた。競売に出された青年はちらっと視線を上げ、また伏せた。司会の男は眼鏡の奥で目をきょときょとさせている。ハンカチで汗を拭きながら声を張りあげた。 「その点、ご了承ください。できれば人間の生き血が望ましく……」 「人間の血? どういうことだ?」  参加者の一人が尋ねると、司会の男は首をかしげた。 「出品者の話では、嗜血症ではないかと……。そういう人間は、ごくたまにではありますが存在します。皆さまの血を与えよとは申しておりません。三日から五日の周期で、誰でもかまいません、人間の血を……」 「甘噛みくらいならいいんだが」  参加者の一人が言って、会場にかすかな笑い声が起こった。誰かが自分のプレートを掲げた。 「入札。五十ポンド」  司会の男の目には最初から高額すぎる入札だという心の内がにじみ出ていた。しかし彼は慇懃に進行を務めた。参加者全員、熱心にプレートを掲げた。ハイドも同じようにプレートを掲げる。ウィルクスは目を伏せたままだった。  結局、三十代始めとおぼしきハンサムな男とハイドの一騎打ちになった。レインから「金に糸目はつけない」と言われていたハイドは、淡々と値を釣りあげた。相手は食らいついてきたが、とうとう負けてプレートを下ろした。  エドワード・ウィルクスはかなりの値段で落札された。人ひとり買うのにそれが高いのか、安いのか、ハイドにはわからなかった。  背中に十二人の男の視線を浴びながら、ハイドはステージにのぼった。司会の男は「おめでとうございます」という声とともに、ハイドに手錠の鍵を渡した。彼がすぐにロックを外すと、ウィルクスは黙礼した。司会の男が参加者たちに呼びかける。 「皆さま、次のオークションが始まります。ご興味をお持ちの方は、隣の建物にお移りください。ご入場の際は参加証をお見せください……」  男たちがばらばらと出ていくなか、ハイドは司会の男に「もう帰るよ」と伝えた。小切手を書き、背中を向けて歩きだそうとするとウィルクスがついてくる。そうだ、彼を落札したんだったな。ハイドは思いだして、歩調を緩めた。ウィルクスは少し距離を置いてついてきた。地上に出る階段の途中で、ハイドは振り向いた。 「エドワード・ウィルクス君、というんだね?」  尋ねると、青年はかすかにうなずいた。左から当たるガス灯の光で顔がよく見える。長い睫毛の下の目にはなんの感情も浮かんでいない。きれいな子だな、とハイドは思った。彼は穏やかに名乗った。 「シドニー・C・ハイドです。ぼくのところに来てくれて、ありがとう」 「……いえ」  ウィルクスはかすかな笑みを浮かべた。ハイドは立ち止まったまま尋ねた。 「家に着くまでになにか食事をするかい? ……そういえば、きみは血を飲むと聞いたが……レアのステーキや、レバーなどではだめなのかな?」  ウィルクスは答えなかった。鋭い瞳が階段の踏み板をすべる。彼は目を伏せたままつぶやいた。 「あの、はじめるときはあらかじめ、これからどんなことをするか、教えてくれませんか?」 「はじめるとき?」 「おれを抱くときです。こんなことを言ったら生意気に思うかもしれませんが……なにをされるかわかってるほうが、気が楽だから」 「生意気だなんて思わないよ。当然のことだ」  ウィルクスは視線を上げた。ハイドの目を見て、かすかに微笑む。 「ありがとうございます」  ハイドはうなずいて、言った。 「きみが言ったこと、伝えておくよ」 「え?」 「ぼくは代理人なんだ。ある人の代わりにきみを落札した。これからその人の家に行くよ」  ウィルクスは視線を伏せて「はい」と答えた。ハイドのあとをついてくる彼はなんの荷物も持たないで、ただきれいなシルクハットだけを持っていた。

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