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後編

 辻馬車に乗って二人がアーサー・レインの自宅を訪れたとき、家は静まりかえっていた。霧が出はじめている。ハイドが門になった鉄柵を押すと、それは内側に向かって開いた。前庭では木々が寒々と腕を伸ばしている。しかし、裸木も若い芽を孕みつつあった。木々のあいだに玄関のアーチが見え、灯りがともっている。ハイドは玄関まで伸びている白いタイル敷きの小道を歩きだした。彼は振り返って、門の前にたたずんでいるウィルクスを手招きした。青年がゆっくりした足取りでやってくるまで、ハイドは立ち止まって待っていた。  探偵は横手に続く庭のほうを見て、あの枯れた噴水を見つけた。以前ここに来たとき通された客間はカーテンが閉めきられ、真っ暗だった。  玄関のベルを鳴らし、二人はしばらく待った。寒さがますます険しくなり、ハイドは白い息を吐いて足踏みした。ウィルクスは震えることなく彼の後ろにいて、目深にかぶったシルクハットの向こうから玄関扉を見つめていた。  もう一度ベルを鳴らそうかというとき、扉が開いて太った初老の男が顔を覗かせた。疲れた顔の使用人は扉を中途半端に開けると、その陰に隠れた。旦那様がお待ちです、と男は言った。  二人は邸宅の奥を抜けて、廊下で繋がった小さな別館に通された。別館は平屋で、頑丈なレンガで組んであった。バスルームと寝室と居間からなる、客人用の離れらしかった。ハイドは窓越しに遠く、噴水の姿を認めた。別館のまわりには常緑樹が生い茂り、暗く、部屋の中まで湿っぽかった。使用人の男は居間の扉をノックし、二人を中に通した。  凝った細工の折り畳み式テーブルとカウチのあいだ、白い光を宿す照明が吊るされたその下に、アーサー・レインが車椅子に腰を下ろして待っていた。灰色の瞳が光っている。老人は口を固く結んで扉のほうを凝視していた。彼の視線はハイドを無視し、ウィルクス一人に注がれた。 「どうもありがとう、シドニー」  老人はやや前かがみになり、血管の浮いた手で車椅子のアームを握って言った。 「久しぶりだな、ウィルクス」  ウィルクスは目を伏せていたが、顔を上げてレインを見た。 「久しぶり、レイン」 「わたしのことを覚えているのか、エド」 「覚えているよ。あなたは忘れがたい人だった」 「そのことは自負している。だが、すばらしい思い出ではあるまい。わかっているさ」 「すばらしいと思ったときもあったよ」ウィルクスは淡々と言った。「あなたの次の男がもっと酷かったから」  レインはむせぶように笑った。 「よくよく運の悪い男だな、おまえは。だが、そうなってしまうのは自分のせいだ。おまえは魔物なんだ。男を惑わす。惑わされた男は正気を保つために、おまえにいろいろと……そう、いろいろなことをするんだよ」 「男が弱い生き物だってことは知ってるよ。だが、あなたはその中では強いほうだった。……いまさらなんだって言うんですか?」 「シドニー」レインは身を反らすようにして探偵のほうを向いた。刺すような目で見て、扉のほうに顎をしゃくる。「ご苦労だった。金はまた後日、改めて支払うよ。急いだほうがよければ、今バーナードに用意させる。ここへ案内してきた男だ。どうする?」 「後日で結構ですよ」  ハイドはウィルクスを見た。彼はレインのほうをじっと見ていた。そのときハイドはふいに、ウィルクスがどれだけこの場から逃げだしたがっているのか知った。しかしハイドにはどうにもできなかった。ウィルクスの呼吸は浅く、胸が波打っていた。  ハイドの心の内を察したかのように、レインが明るく言った。 「ウィルクスとわたしは古い知り合いなんだよ、シドニー。そうだな、エド? おまえがオークションに出品されると聞いて、彼に落札してもらうよう頼んだんだ。わたしはもう長くない。自分でそれがわかっているんだよ。だから最期くらいは、懐かしいお前の顔が見ていたくてね」 「そうなるまでに何年かかる?」 「なに?」  ウィルクスは背筋を伸ばした。まるで自分より上背のある人間に向かいあうときのように。そして言った。 「あなたが天に召されるまでにどのくらいかかる? 金持ちの老人と結婚した若い娘みたいに、毎日毎日祈る姿は目に見えてる」 「ああ、天は慈悲深いからな。……もうそのへんにしたらどうだ?」レインは静かに言った。「シドニーに感謝するんだ、ウィルクス。あの『出品者』から逃れられてよかったじゃないか。これからも金輪際おまえに帰る家はないし、結局またウェスト・エンドのどこかで男を待って立つはめになる。これからはわたしが面倒を見てやるよ。血も与える。黒人の血だがな。だが、若くて逞しい男だ。おまえもきっと好きになるさ。どうもありがとうシドニー。礼を言うよ」  それで、ハイドがこの場にいる意味はなくなった。彼はレインに目礼し、ウィルクスのほうを向いた。彼は視線を伏せていた。 「じゃあ、ウィルクス君」ハイドはそっとウィルクスの肩に触れた。「元気で」  ウィルクスはハイドを見て、かすかにうなずいた。口元に浮かんだ微笑は自然だった。細められた目も笑っていた。まぶたがふいに痙攣した。  ハイドはレインの邸宅を去った。日付が変わる間際のことで、あたりは湿っぽく、霧のせいで嫌な臭いがした。拾った辻馬車の御者がこの日の底冷えについてぶちぶち言っていたが、ハイドの耳には入らなかった。 〇  それから四日後、三月を迎えていた。ハイドが使っている銀行の一つにアーサー・レインから金が振り込まれ、ハイドは報告書をまとめる仕事にとりかかっていた。彼は依頼料の礼を言うためにレイン家に電話を掛けた。  バーナードが電話に出て、「申し伝えておきます」と言った。 「旦那様はいささかお加減が悪く、おやすみになられております」  ハイドはわかったと答え、それから少し迷ったが、結局こう言った。 「ウィルクス君に代わってもらえないか?」  バーナードはかしこまりましたと答えた。  それから少し待つと、受話器の向こうから物音がして、若々しい声がこう言った。 「こんにちは、ハイドさん。ウィルクスです」  彼の声は落ち着いていた。むしろ低すぎて、聞きとりづらかった。探偵は仕事机にもたれて立つと受話器を片手に笑顔を浮かべた。 「元気にしているかな?」 「ええ」 「もう、そっちでの暮らしには慣れた?」 「少しずつ慣れると思います」 「そうか。食事は? 摂れているのか?」  電話の向こうは少し沈黙した。相変わらず低い声が「はい」とつぶやく。ハイドは窓辺に置いたアクアリウムの水槽が、昼の曇った光を反射するのを見ていた。 「大事に扱われているか?」  電話の向こうは沈黙した。アクアリウムで金魚が跳ね、水草が揺れた。 「ウィルクス君? どうした?」 「レインは男におれを犯させて、それを見ています」  ハイドは受話器を握った。片手をまぶたに当て、目元に力が入る。ウィルクスの声は相変わらず落ち着いていた。 「でも、まだましです。別のやつにもっと酷いことをされたこともある。レインはそういう男です。それはわかっていたし、もういいんです」 「きみの言葉を彼に伝えていなかった」  ウィルクスは受話器の向こうでしばらく黙った。脇腹にできた痣をウェストコートの上から撫で、「え?」とつぶやいた。 「きみがオークションのときに言ってたじゃないか。これからなにをするのか、事前に知らせてもらえたら気が楽だって。そのことを伝えてなかった」 「言っても聞くような男じゃないですよ」 「だが、そのことを伝えないと、まるできみをあとに残して扉を閉めたような気分になる。……でも言っても聞かない人ならしかたないね。それでも伝えたら、きみがもっと嫌な立場に追いこまれるかもしれない。それに、伝えておけばよかったとぼくが思うのは、きっと自分の良心が痛むからだろうな」  ウィルクスは電話の向こうで微笑んだ。 「ありがとう、ハイドさん。優しいんですね」 「そうかな。だが、年の功で教えておくよ。優しさや、優しい人間をむやみに信じないほうがいい。優しさっていうのはある意味では暴力だから」 「よくわからないな。おれをもらってくれるのが……」  あなただったらよかったのに。ウィルクスはそう言いそうになって、頬の肉を噛んだ。笑って、「もっとましな男だったらよかった」と言った。かすれたその声が耳元で聞こえたとき、ハイドは片手で髪を掻き回していた。 「なにか困ったことがあったら、うちに電話をかけてくるといい。番号を教えるよ。それとも、そんな自由はない?」 「いえ、そんなことはありません。でも話がややこしくなるから、おれが自由をとらないだけです。あの、ハイドさん。おれは……」  ウィルクスの声は裏返りそうになって留まった。 「男娼をして生きてきました。だから、慣れてるんです。ありがとう。優しくしてもらって、とてもうれしかった。でも、電話を掛けることはありません」  そうか、とハイドは言った。 「本当に大丈夫です」ウィルクスは受話器を握って笑った。  ハイドは静かに電話を切った。 〇  三月の二週目も終わりかけていたが、期待されたほどには暖かくならなかった。ハイドは新しい依頼人と仕事の面談をし、送付する予定の報告書を二通書いた。続々届く手紙に返信し、請求書を見て金を払い、社交の義理で競馬とお茶会に参加した。ハイドの探偵事務所と彼の家は滞りなく日々を送っていた。白髪の老人である使用人のホプキンスと、若くてきれいなメイドのマーゴットも同様だった。ハイドは彼らに仕事をさせ、給金を払い休みを与え、そんなときには自分で料理をつくった。  その日。ウィルクスから電話がかかってきた日曜日もハイドは使用人二人に休みを与えていた。夜の八時半過ぎ、食事に出かけるため、着替えに行こうとしていたところで仕事机の脇に置いた電話が鳴った。彼は手を伸ばして受話器をとった。 「はい、シドニー・ハイドです。探偵事務所にご用でしょうか?」  電話の向こうは一瞬沈黙した。聞き覚えのある声が言った。 「アーサー・レインが死にました」  ハイドは受話器を握ったまま、ウィルクスの言葉が脳に染みこむのを待った。 「亡くなった? いつ?」 「きのうの夜です」 「なぜ?」 「心臓麻痺です。医者が死亡診断書を書いてくれました。レインは心臓が悪かったんです。この寒さと、むりが祟ったという話でした。医者も警察も、傷には気がつかなかった」 「傷?」 「首の噛み痕です。傷はほとんど塞がっていましたから」 「その傷は、死因とは関係ないのか?」  ウィルクスは答えなかった。ハイドは尋ねた。 「遺言などは?」 「すでに弁護士が公開しました。バーナードは以前からレインに告知されていた通り、引退生活に入りました。かなりの金をもらえるそうです。料理人も同じく。この家にいるのは、今はおれだけです」 「葬儀は?」 「そっちは、レインが自分で手配していたそうです。ある慈善団体がしてくれるとか。レインに身よりはいません。この家は売りに出されるそうです」 「そしてきみは自由になった」 「そうです」  ウィルクスの声は淡々としていた。 「いろいろお気遣いありがとうございました、ハイドさん。最後にお礼を言いたくて、電話したんです。この回線もまもなく使えなくなります。おれもここを出ます」 「行くところはあるのか?」 「いいえ。でも、街に出ます。どこかで寝る場所を探しますよ」 「うちに来ないか?」  電話の向こうは沈黙した。ふいに風の音が聞こえて、ハイドは耳を澄ました。しかしその音はウィルクスの喉から漏れた息の音だった。ハイドはその音に勇気づけられた。受話器を握り直して言った。 「もう遅い時間だ。今夜一晩だけでも、うちで休んでいかないか?」 「でも、甘えるわけにはいかない」 「たいしたことじゃない。余分な寝室があるから。それに」ハイドはなぜだか自分でもわからないまま、このときはっきりとこう言った。 「今夜は使用人がいないんだ。家にいるのはぼくだけだよ」 「でも……」また風の音がした。 「ご迷惑では?」 「そんなことはないさ。ぼくに迷惑を掛けられる人はそうそういない」 「あなたは……」電話の向こうでウィルクスはかすかに笑った。「とらえどころのない人だ。春風みたいに」  ハイドも微笑んだ。ウィルクスはつぶやいた。 「今からうかがってもかまいませんか?」  もちろんだよ、とハイドは答えた。 〇  一時間ほど経ったころ。事務所を兼ねた居間のソファに腰を下ろして考え事をしていたハイドは、玄関のブザーが鳴る音に顔を上げた。彼は火が弱くなった暖炉の中に石炭を放り込むと、鉄の細工で黄水仙を描いた火除けをまた暖炉の前に戻して、居間を出た。心持ち足早に階段を下りて玄関扉のドアノブを握る。  扉を開けるとどうっと風が吹き込んだ。真っ暗な夜の口の中にウィルクスの姿が浮かんでいる。青ざめた顔と白いシャツと白い手が際立って、黒いコートとズボンと革靴は闇に溶けこんでいた。彼はシルクハットを脱ぐと目礼した。  ハイドが手招きすると、ウィルクスは灯りの中にやってきた。ハイドはそのとき、茶色の短髪が清潔な少年を思わせること、その下の吊り上がった眉が男性らしく、形のいいものであることに初めて気がついた。暗く輝く焦げ茶色の瞳にはなんの感情もあらわれていない。ハイドは扉を閉めるとシルクハットを受け取り、ウィルクスと視線を合わせて、「上においで」と声をかけた。ウィルクスは足を踏みだしかけたが、身じろぎしただけでうつむいた。唇の端からうなるような音が漏れた。 「ウィルクス君?」  ハイドが歩みを止めて振り返るとウィルクスは伏せていた目を上げた。ハイドを見つめる。探偵は引き返してきた。ゆっくり一歩ずつ階段を降り、玄関マットから少し進んだところで立ちすくんでいるウィルクスの前まで行って、そっと肩に手を置いた。ウィルクスは感電したように顔を上げた。 「ハイドさん」  ささやいたウィルクスの瞳が赤い光を帯び、燃える火のように輝いた。彼の手がハイドの首に伸び、ゆっくりとタイに触れる。なめらかな動作で結び目をほどくと、タイは床にすべりおちた。ウィルクスはハイドの目を見つめたまま、彼の喉元のボタンを外し、カラーを開いた。  逞しい首筋があらわになる。ウィルクスの動きが止まり、彼の視線はその場所に注がれる。ふいに、唇にはにかむような笑みを浮かべた。彼は恥ずかしそうにハイドを見上げ、初夜の花嫁みたいに目を細めた。ハイドが彼の後頭部を片手で抱き寄せると、ウィルクスは首筋に顔をうずめた。ハイドの肩に手を置き、もう片手を彼の頭に添えて、爪先立ちで背伸びをする。体をかがめたハイドを抱きしめるようにして、ウィルクスは首筋に牙を押し当てた。  自分の首から血液がほとばしっている。ハイドは実感した。熱い血が泉のように溢れ出し、目の前がかすかに白くなる。ウィルクスは牙を立て、噛みついた場所に唇を押し当てて血を吸った。喉を鳴らして飲んでいるあいだ、ハイドは目を閉じていた。頬に触れるウィルクスの手は冷えていたが、しかし、たしかに生きていた。短く切られた爪がハイドの頬骨をなぞる。  まぶたを開いたとき、ハイドは激しいめまいを感じ、よろめきそうになった。ウィルクスは彼を抱きとめた。ハイドがきつく目を閉じているあいだに唇についた血を舐めとり、腕の中にいる彼がしっかり立つまで、黙って抱きしめていた。  ようやくハイドは目を開けた。ウィルクスの腕の力が緩む。ハイドが目を擦っているあいだに、ウィルクスは体を離した。ハイドは剥きだしになった自分の首筋に触れた。噛み痕に触れるとかすかに血がついたが、ほとんど点のようなものだった。 「きみは血が好きな人間なのか? それとも本物の吸血鬼?」  ウィルクスはかがんで、床に落ちたタイを拾った。瞳はもう静かな焦げ茶色に戻っていた。タイを差し出すとハイドは受け取り、「どっちでもいいか」と言った。  ウィルクスはうつむいたが、やがて顔を上げるとハイドの喉元のボタンを留めようとした。ハイドは黙って待っていた。 「うちにいてもいいよ」探偵はタイを締めながら言った。「もし、いたいなら」 「でも」ウィルクスは体を離してささやいた。 「ご迷惑でしょう」 「ぼくに迷惑を掛けられる人間はそうそういない。悪魔もしかり、神もしかり」  ハイドはそう言って居間に続く階段をのぼりはじめた。ウィルクスはためらい、しかしあとをついていく。ハイドは振り向いた。 「迷惑を掛けると思うなら、役に立ってくれ。ぼくは私立探偵なんだ。助手をしてくれるとありがたい」 「探偵助手?」 「そう。きみはしっかりした、まじめないい子だ。それに、きっと強い。役に立ってくれると思ってね。もし吸血鬼ならなおのことだ」  コウモリに化けたり、霧になって空を飛ぶこともできるんだろう? ハイドは屈託なく尋ねた。彼が果たして本気でそう言ったのか、それとも冗談なのか、ウィルクスにはわからなかった。それでも口元に微笑が浮かぶ。 「できることとできないことがあります。噛んだ相手を仲間にすることすらできない」 「それじゃあ、きみは孤独な生き物なんだな」  ウィルクスの目の端に涙が浮かんだ。彼は頬の肉を噛み、涙をごまかして目を伏せた。笑って、「はい」と答えた。  ハイドが居間の扉を開けると部屋は暖かくなりはじめていた。暖炉の火が燃え盛り、金魚が水槽の中で跳ねる音が聞こえた。電気が灯る部屋は明るく、ウィルクスの目に輝いて見えた。  部屋の真ん中でハイドが振り向いた。 「人間は血の詰まった袋だ、と言った詩人がいる。きみの目に、ぼくもそう見えるのか?」  そう尋ねたハイドはこのとき、ふざけていた。ウィルクスにはそれがわかった。だから笑ってこう言えた。 「決して。でも、うまそうだ」  きみが血を吸ったから、アーサー・レインは死んだのか? ハイドはそう思った。しかし、尋ねなかった。ウィルクスもなにも言わなかった。  彼は扉を閉めた。  こうして、吸血鬼は探偵事務所に居つくことになった。

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