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第一話 檻
紺色のビロードみたいな闇が落ちた。
いつもの夜だった。白いシーツがまあるい皺を作って、ハルの指が肩に縋り付く。ああ、またか。肩に爪が食い込んで。これは跡を残すだろう、と胡乱な頭で思う。痛みはなかった。ただ、こうして血の繋がらない弟を抱いている現状に、イラついていた。
家族とは酷い呪縛だ。
母親もそうだった。
父親より俺と寝るのを好んだ。
今でも思い出すと吐き気がする。だから、思い出さないようにしているのに、父が再婚したら、再婚相手の息子は、俺を求めた。
如月ハル。
俺はこいつが大嫌いだ。
俺を縛る為ならなんでもする。いつも、俺の興味を引く嫌がらせを考えている。
拒めば良かった。
でも、拒めなかった。
俺は《拒む》という行為が、とにかく苦手だった。誰にだって流される。自分を搾取されることさえ構わずに。
「ねぇアキ」
ねっとりと甘えるような声でハルが問う。
「熱帯魚の死骸、見た?」
俺の腰骨辺りに手を置いて、彼は言う。
「オマエの仕業だって、すぐにわかった」
「どうして?熱帯魚が自分で飛び出したのかも」
「蓋がある。誰かが開けなきゃ、魚は自分から外へはでない」
ふふ、と笑う吐息が、鎖骨に掛かった。
「アキが大事にしてるアクアリウム、憎いから壊しちゃおうと思ったけど、アイツが飛び出してきて、急に気が失せた」
悪魔のような奴だ。
でも、それもどうでも良かった。
ただ、飛び出した熱帯魚に想いを馳せた。
ハルの掌が腹を撫でる。また求められるのが億劫で、ベッドを降りて、シャワーを浴びにいく。シャワーからは温い水しか出ない。水圧も低く、スッキリしなかった。
部屋に戻ると、ハルはもう寝ていた。寝顔はやけに幼くて、長い睫毛が印象に残った。
まだ目が冴えていた。
仕事部屋に行って小さな灯りを点ける。パソコンを開いて、溜まっていた仕事を少しだけ進める。リゾート会社のホームページデザイン。
と、受信ボックスに、メールが届いているのに気づいた。
藤原アキ様。
以下の内容の変更をお願い致します。
資料を添付しますので、ご確認ください。
変更は数箇所あった。添付された資料の写真には、青い空と碧い海が広がっている。簡単に了承のメールを打って、画面を眺めた。
そこには、広く碧い海と赤いハイビスカス、レイの花を首から掛けた女性たち、熱帯魚と立派なホテルが映し出されていた。急いでレイアウトをやり直して、修正箇所を直していく。
――肩が凝った。
慣れた仕事ではあるが、急に面倒臭くなった。これを今週中に仕上げなければ、会社は困る。だが、もう俺も壊れてしまいそうだった。社会人としては最低だが、人間としては真っ当だと感じた。
俺は、ふいに思い立って、検索窓で、片っ端から、リゾート地を検索した。
俺の脳裏にある、理想の楽園――つまり、逃げ場を、そして、あの亡骸にふさわしい海を、探した。
何時間も探して、見つけたのは、俺のイメージにピタリとくる、碧。
青のようであり、緑のようであり、ひどく透明で、そう、ラムネの瓶のような、懐かしさがあった。
そこは、南の孤島で、ホテルも一軒しかなかったが、どうだって良かった。泊まれるならそれで。
ネットで明日から一ヶ月の予約を取り、飛行機のチケットも購入する。
とにかく、逃げなければ、と思った。自分の輪郭が無くなる前に、逃げなければ。
自分を閉じ込める、アクアリウムのような、毒の。家族という檻から。
あの、熱帯魚のように。
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