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第二話 海と少年
碧。
透明で、静かな碧。
翌日には、俺の欲しかった景色は目の前に広がっていた。
身、ひとつで来た。スマートフォンとカードとパスポートだけを持って。服も、鞄も、靴も、あの家にあるものは持ってきたくなかった。だから、それらは空港で買って、そこまで身につけていたものは、全部捨てた。金はデザインの仕事と、学生時代に描いた絵が賞を取って、絵を売って稼いでいたから、暫くは心配ない。あの家の呪縛から解放されるまでは、ここにいようと思っていた。
そろ、と砂浜に足を踏み出す。
海水は冷たいだろうか。
期待に胸が高鳴る。
だんだん、速度が上がる歩み。
最後は駆け足になって、水の中に入った。温い水は、抵抗がなく、柔らかだった。靴の中に砂が入り、なんだかくすぐったい。初めて得る開放感に自然と頬が緩む。海に服のまま潜って、全身水浸しになる。――気持ちいい。
長年染み付いた、澱んだ、暗いスモーキーな汚れが、洗い流されていくような気分だった。
あまり気持ちよくて、海の中、砂浜で、数時間を過ごした。
《ひとり》。
なんて気持ちいいんだ。
誰にも支配されない感覚。
俺は、少し微睡んだ。
生まれて初めて感じる、これが自由?
潮騒が、ざあん、と答え、熱帯魚がゆらり、頭の隅で揺らいだ気がした。
◇
ホテルのバーで飲んでいた。透明な液体がグラスの中を満たしている。水面に誰かの視線を感じた。いるはずのない、ハル。
スマホに何度も電話をかけてくるので、俺の携帯は今、電源を切ってあった。
短く息を吐いて、周りを見渡す。人はまばらだった。中に、明らかに未成年と思われる、栗毛色の髪を見つけた。気になって観察していると、彼は、連れはなく、居心地悪そうに、思い詰めた顔をしていた。西洋人らしい白い肌。まだ幼さの残る輪郭は、酷く整っていて、またハルを思い出す。余りに青くなって震えているので、気になって仕方なかった。
彼は、一杯の赤いカクテルを飲み干すと、がくん、と揺らいだ。
俺は、思わず立ち上がりそうになって、折角ひとりになれたのに、また世話焼きしてる場合か、と堪える。
そのまま十分くらい、彼はゆらゆら揺れていた。それから、立ち上がると、覚束ない足取りで会計を済ます。
白いうなじがほんのり色づいていた。
酔っている。確実に。しかも酷く。
俺は小さく舌打ちして、後を追った。
こんなところにまで来て、他人に世話を焼こうとする自分に嫌気がさすが、放っておけないものは仕方ない。彼に声をかけるつもりは無かった。ただ、何事もなく部屋に帰れたら、そのまま自室に戻るつもりだった。
が、彼はふらつく足取りで、ホテルの外へ出た。もう時間も遅い。外は殆ど何も見えない暗闇だ。大体、ここにはホテルと飲食店ひとつ、雑貨屋、服屋が一店づつあるだけだ。この時間に開いている店はない。一体どこへ?
彼はよろよろしながらも、海を目指していた。海は、今は暗い静寂にのまれ、潮騒だけを響かせていた。
砂浜についた彼――少年が、そのまま海に入っていったものだから、俺は焦った。自死するつもりか?いや、だが、俺はそんな他人の重たい事情に首を突っ込んでる場合じゃないんだ。悪いが、見殺しにする。俺は何も見なかった、そう思い込もう。身を翻し、歩き出した。一歩、二歩、三歩、四歩……。
「あー」
無理だった。見なかったと思い込むなんて。見殺しにするなんて。自分でも精神疾患かと思うほど異常に、人を見捨てることができないのだ。お人好し、というわけではない。単なる病気だ。
諦めて、引き返した。
海の方を見ると、少年は、肩まで海水に浸かっていた。
急いでザバザバと海に入って、今にも消えそうな影に近づいた。腕を伸ばして、相手の腕をしっかりと掴んだ。振り向いた。腕が震えていた。困惑の表情。
俺は抵抗する相手を押さえ込んで、抱きかかえて、なんとか砂浜に戻った。
二人とも息が上がっていた。腰を下ろして、向かい合った体勢だった。
「……どうして……?」
少年が俺を責めるように言った。
「死ぬなら、俺の見ていない時にたのむ」
「そんなの……」
黙った少年。俺は月を見ていた。憐れな少年を見ているのがキツかったからだ。
「僕は……」
「知らない。俺は、なんでオマエが死のうとしたのか、知らなくていい。名前も知らない」
「じゃあ助けないでよ」
「だな。悪かった」
俺は立ち上がると、少年に手を伸ばした。
「詫びに、送る。立てるか少年」
「ナギ」
「ナギ、部屋はどこだ」
「部屋には帰れない」
「……事情は聞かない。別の部屋を取るか?」
「それは困る」
「なら――」
一瞬躊躇って、言った。
「俺の部屋にくるか?」
言ってしまった。やっと《ひとり》を手に入れたのに。嫌な予感がした。コイツが、疫病神みたいに見えた。
でも、多分それは、彼がハルにどこか似ていたからだ。
ナギは戸惑いながらも、意を決したように、頷いた。
息もできないような闇夜。
こうして俺とナギは出会った。
それは運命でもなんでもなく、ただ全くの誰かの気まぐれで、仕方なく出会った、と言っていいほど、どうでもいい出会いだった。この時は、そう思っていた。
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