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第1話
二十歳になった僕――岩井琢磨は、この日のために貯めておいた貯金を財布に押し込んで、ずっと行きたいと願っていたバーの入り口でためらっていた。
どうしよう。
ただ扉を開ければいいだけなのに、宙に浮いた手はドアノブを掴めない。財布の中身は充実している。ためらう理由なんて、どこにもない。
どうしよう。
どうもこうも、この店に入るために電車に乗ってここに来たんだから、えいやとドアを開ければいい。そう思うのに、重厚なドアに気圧されている。
僕は硬直して、動けなくなってしまった。
しばらくそうしていると、優しく声をかけられた。
「どうしたのかな?」
心地のいい低音の、やわらかな響きのある声に、僕の背骨はゾクゾクした。ゆっくりと顔を向けると、柔和な目をした大人の男が僕にほほえみかけている。ふんわりとした雰囲気の、男性的な包容力をにじませるその人の雰囲気に、僕の緊張はスウッと抜けた。
ダークグレーのスーツに、真っ白なワイシャツ。ネクタイはストライプのワインレッド。髪はふわりとしたオールバックで、かっちりとした印象を受けるけれど、堅苦しくは感じない。対して僕はワックスで無造作に整えたショートカットに、紺色のフード付きジャケットと茶色がかった緑のカットソー、ベージュのチノパンというスタイルだ。
「あの、ええと……」
チラチラとバーの扉に視線を向けると、相手は「ああ」と短く言って笑みを深めた。
「この店がどんな場所なのか、知っているんだね」
「――はい」
「それで、入ろうとしている?」
「今日、二十歳になったんです」
硬い声で告げると、なるほどとうなずいて、その人は扉を開いてくれた。
「それはそれは、おめでとう。さあ、どうぞ」
ほんのすこしキザな仕草で僕をうながしてくれたその人は、カウンターのスツールまで案内してくれた。それだけでなく、カクテルまで注文してくれる。
「君の誕生日祝いに」
スマートな言動に、これが本物の大人なんだと僕は思った。
「あの、岩井琢磨って言います」
「琢磨くんか。俺は久永秋生。――秋に生まれたから秋生だなんて、安易すぎる名前だと思わないかい」
なんとも返事のしようがなくて、僕がモゴモゴしていると秋生さんは名刺をくれた。
「怪しい者じゃないから、安心して。この店に入りづらいのなら、慣れるまで一緒にいようか」
「えっ」
「落ち着くまで、知っている顔があると入りやすくなるだろう」
「……いいん、ですか?」
「いいもなにも。君は、自分を取り戻しにここに来たんじゃないのか?」
その通りだった。
同性愛者である自分を認め、受け入れてくれる場所を求めて、僕はここに来た。それを見透かされたことが恥ずかしくて、うれしくて、体中が熱くなる。
「ありがとうございます」
連絡先を交換しようと慌ててスマートフォンを取り出した僕の手を、秋生さんはやんわりと押しとどめた。
「僕は毎週、金曜日の夜に来るから」
「えっと、あの」
「そう簡単に、相手を信用してはいけないよ」
名刺をもらっても、信用しちゃいけないんだろうか。
そう思っても、声には出せなかった。言えばものすごくダサい気がして、僕は「わかりました」とスマートフォンをカバンにしまった。
それから、どんな会話をしたのかはっきりとは覚えていない。しゃべっていたのはほとんど僕で、秋生さんは静かな笑みをたたえて時々グラスに口をつけていた。内容なんて、あってないような会話だった。
そう。
たわいないものだからこそ、ちゃんと会話をしているという実感のある、充実した夢のような時間だった。
終電が近づいて、このまま秋生さんとどこかへ行きたい気がしたけれど、まっすぐ駅まで送られて「それじゃあ、また」なんて言われたら、食い下がれない。
秋生さんはどこに行くのか、改札を通った僕に背を向けて、ネオン輝く夜の街に戻っていった。
完全に、ひとめぼれだった。
それから僕は毎週金曜日、必ずバーに顔を出した。目当てはもちろん、秋生さんだ。入り口で出会えることはまれで、だいたいはどちらかが先に店内にいた。
秋生さんは僕を見つけると、誰かと過ごしていても断りを入れて、僕の隣に来てくれた。その中で明らかに、秋生さんと艶っぽい関係なんだろうなと思わせる相手がいた。その人は秋生さんとおなじか、それよりもすこし年上に見えた。スーツのよく似合う、大人の男だ。
大学生の僕からすれば、それは父よりも年下の、けれど立派なおじさんだった。なのに秋生さんには、おじさんという単語が似合わない。そう思うのは、僕が秋生さんに惚れているからだろう。
同年代のふたりは僕の姿を見つけると、目配せをして離れた。秋生さんの指が男の太ももにあって、男の腕が秋生さんの腰に回っていることもあった。
秋生さんは抱かれる側なんだな、と自然に理解した。そしてちょっと股間が硬くなった。僕は秋生さんを抱きたいと思っていたから。
想いは日に日に強くなった。
僕は秋生さんの姿を浮かべて自慰をするようになり、付き合っていた――自慢じゃないが、僕はそこそこ女にモテた。同性愛者と知られるのが怖かったのと、もしかしたら女性を愛せるようになるかもしれないとの希望も抱えて、好きでも嫌いでもない相手と付き合っていた――相手と別れた。肉体的な本能の部分を抜きにして、心は秋生さんでしか満足できなくなっていた。
そんなときだ。
秋生さんの話を耳打ちされたのは。
どこにでも下世話な人間はいる。洗練された大人の世界だと思っていた場所にも、そんな人がいた。
「今日は彼、遅いね」
カウンター席が埋まっていたので奥のふたり掛けのテーブル席で過ごしていると、大柄な男が声をかけてきた。隆々とした体躯の彼を、僕は何度も見たことがある。たしかシューヤと呼ばれていた彼は、立派な胸筋を誇示するように僕の隣に座り、ウィスキーを注文した。
「残業なのかな」
「さあ」
どうして声をかけられたのか。さっぱりわからなくて困惑する僕に、シューヤは歯磨き粉の宣伝みたいに歯を見せて笑った
「そんなに警戒しなくても、取って食ったりはしないさ」
「いえ、警戒をしているわけじゃなくて、どうして声をかけられたのかな、と思って」
「ん? 秋生の味を知っている者同士、会話をしても不思議じゃないだろう」
「え?」
「もしかして、まだだったのか」
あきらかに演技とわかる大げさな表情に、洋画を観ているみたいだなとぼんやり思う。きっと秋生さんとこの男が関係を持ったなんて想像もできないから、意識が遠い場所に行っていたのだろう。
男は僕に顔を寄せ、声をちいさくして言った。
「まあ、いずれ君も味わうことになると思うがね。彼の体に溺れないように気をつけることだ。――彼は、麻薬だからね」
最後の言葉だけが、僕の脳みそに浸透した。
秋生さんは、麻薬。
その言葉はしっくりと僕のイメージする秋生さん像になじんだ。
「秋生さんの味を知っている人は、あなたのほかにもいるんですか?」
いつも秋生さんと寄り添って座っている男はもちろん、そのほかにも店の中にいるのだとしたら、どんな気持ちでほかの男と過ごしている秋生さんを見つめているのか。それが知りたい。
僕の真剣な問いに、シューヤは軽く肩をすくめて口の端を片方だけ持ち上げた。
「ここの客はほとんど、秋生の味を知っているさ」
「それって……」
僕はサッと店内を見回した。
「あの人は、そのことを知っているんですか」
「あの人? ああ。ここ最近、秋生といっしょにいた男か」
さりげない口調は過去形だった。気になって、聞き返す。
「いっしょに、いた?」
すると男は意地の悪い光を瞳に浮かべて、けれど表情は暗く沈めてささやいた。
「別れたらしい。まあ、半年も秋生を独り占めしていたんだから、満足だろうさ」
言葉に含まれた意図が分からずに、僕はけげんな顔をした。シューヤはニヤリと笑って、僕の背中を軽く叩くと「本気になりすぎないようにな」と言い残して席を立った。
その日、秋生さんは店に現れなかった。
◇
それから秋生さんの腰に手を回したりしていた男は、姿を見せなくなった。気になったけれど聞くわけにもいかない。目が合ったシューヤに意味深なウインクをされたことが、答えだと思っておく。
秋生さんはあれから特定の男と付き合ってはいないようだった。すくなくとも、僕の目にはそう映った。だからといって、完全にフリーだとは言い難い場面に幾度か遭遇した。スツールに腰かけている秋生さんの隣に、誰かが座っている。その相手は一定ではなくて、誰もが僕よりずっと大人だった。
僕の姿を見ると、艶めいた視線を秋生さんに向けて席を空ける人もいれば、そっと秋生さんに触れてから席を立つ人もいる。どの人も僕を秋生さんの相手と認めていないのが、ありありと感じられた。
二十歳なんて、まだまだ子どもだと思い知らされる。
悔しさと、秋生さんを独り占めできる時間を優先的に与えられる喜びの狭間で、僕はしっかりと独占欲と支配欲を育てていった。
必ず秋生さんを手に入れてみせる。
気持ちを告げる日は、唐突に訪れた。
いつものように駅の改札まで送られて、それじゃあと秋生さんが背を向ける。いつもなら僕が改札を通ってから去る秋生さんが、僕が改札をくぐる前にネオンの中に戻ろうとした。
誰かに、抱かれに行くんだ。
直観的に気づいた僕は、秋生さんの手首を掴んでいた。
「好きです」
必死な顔で告げると、秋生さんは驚いたふうもなく柔和に目じりを下げて、ありがとうと言った。
「本気です」
「うん」
「本気で返事をしてください」
秋生さんはちょっと困った顔をして、でも笑みを絶やさずに首をかしげた。そんな仕草が僕の中に降り積もった愛おしさを、つむじ風が木の葉を舞い上がらせるように浮き立たせる。
「秋生さんの恋人になりたいんです」
「君はまだ、大学生だろう」
「社会人になったら、付き合ってもらえますか」
「俺は、君の倍くらい生きているんだけどね」
「子どもだと言いたいんですか」
「その逆だ。俺のようなおじさんを、君は抱けるのか」
直接的な言葉に、背骨に電流が走った。
「抱けます」
いますぐにでも抱きたいと、僕は瞳に乗せて告げた。秋生さんはますます眉尻を下げて、そっと息を吐いた。
「本気です。秋生さんじゃなきゃ満足できなくて、恋人とも別れました」
笑顔が消えて、驚きが表れた。もうひと押しだと、僕は秋生さんに一歩近づく。
「秋生さんを思って、ひとりでするほうが気持ちいいんです」
はは、と秋生さんはちいさな声を出した。
「まいったな」
言葉通りの表情で、秋生さんは唇を舐めた。その舌に触れたくて手を伸ばす。触れる前に指を握られて、保護者めいた笑みが艶冶なものに変化して、僕の胸が期待に痛んだ。
「もしも君が、俺の会社に入社できたら付き合うよ」
匂い立つ色香に言葉を失う僕の頬を指先でくすぐって、秋生さんは背を向けて去ってしまった。
後姿を見送る僕の体は、ガチガチに熱く興奮していた。
それから僕が秋生さんの働く会社に入社するため、奮起したのは言うまでもない。
その会社はそこそこ有名な食品メーカーで、会社概要や歴史を調べるのはもちろんのこと、僕はあらゆる商品を買って味を試し、さまざまなサイトのレビューを確認し、友達にも食べさせて感想を聞いた。そんなにその会社に入りたいのかよ、とあきれ顔で理由を問われたけれど、ただ入りたいからとだけ答えた。
秋生さんと付き合うために、だなんて言えるはずもない。
それから内定をもらうまで二年弱。
秋生さんと僕はずっと変わらない関係で居続けた。つまり、週に一度、金曜日にだけ顔を合わせてとりとめのない会話をし、終電が近くなると駅まで送られる、という間柄だ。
その間に秋生さんの恋人らしき人は見なかった。かといって、秋生さんが僕を待っていてくれたというわけではない。それなりに充実した夜を過ごしているようだと、僕が現れるまで秋生さんの隣に座っていた男の仕草や、秋生さんに投げられるまなざしから察せられた。
そんなことで腐っていたら、秋生さんとは付き合えない。
エントリーシートを出すまでに、僕はそれを学習した。そして子ども扱いされる立場を大いに利用して、金曜日の終電までの間は堂々と秋生さんを独占し続けた。
いまに見てろよと、秋生さんに向けられる艶やかな熱視線を意識しながら。
面接を受ける前に商品についてのレポートを作成し、郵送だと不安なので会社の受付に出向いて託けた。本当は人事部に直接渡しに行きたかったけれど、そう簡単に部外者を通してはくれない。きっちり面接官に届けられ、読まれることを祈りながら帰った。
そしていよいよ面接の日。
五人まとめて面接室に通された。目の前には僕らとおなじ人数の、四十代から五十代前半と思しきスーツ姿の男たちが並んでいた。
ひとりずつ質問が投げかけられて、僕の順番がやってきた。どんな質問にも答える自信がある。これをパスすれば秋生さんと付き合えるんだ。
高揚を押さえて胸を張り、質問を受け止める。
どの面接官からもレポートの話は出ずに、ありきたりな質問だけで終了した。読まれていなかったのかと落胆しながらビルを後にして駅に向かう途中、僕のスマートフォンが鳴り響いた。見慣れない番号にいぶかりながら応答すると、面接官の青木と名乗った男に近くの喫茶店で待つようにと言われた。
もしかして、という期待は見事に的中した。ほかの就活生の手前、レポートの話はできなかったのだと説明されて、内々の話だが内定を決めたので他社にはいかないようにと言われた。
もちろんですと答えた僕は、すぐにでも秋生さんに告げたい気持ちを抑え込んだ。
そんなフライングはルール違反だと、浮かれる自分を戒める。そこまで努力をしたんだとアピールをしているようで気が引けた。
ソワソワした気持ちを抱えて、内定発表日まで過ごすのは心地いい苦痛だった。秋生さんは面接日を知っているはずなのに、そのことには触れずにいた。だから僕もニヤニヤする心を隠して、いつもどおりを心がけた。
そしていよいよ内定発表の日。
青木さんの言っていたとおりに、僕は内定通知を受け取った。
報告する瞬間を待ち遠しく過ごす間、何度も内定通知を確認して喜びを嚙みしめた。
金曜日は出かけるまえに、きちんとカバンにそれを入れたか幾度も確認をした。家を出てからも封筒があることを確認し、安心して、次に中身はちゃんと入っているか不安になって確認する。――そんなことを繰り返してバーにたどり着くと、秋生さんは先に来ていた。僕を見て、にっこりとする。秋生さんは結果を知っているのだろうか。
耳鳴りのように鼓膜の奥で鼓動が響く。緊張で喉がカラカラになった。ギクシャクしていると自覚しながら足を動かし、秋生さんの隣に座る。
「あ、あの……」
「楽しみは最後にとっておくかい? それともすぐに、披露したいかな」
「結果、知っているんですか?」
「残念ながら、俺は人事部ではないんだ」
軽く肩をすくめた秋生さんの手首を掴んで、僕は立ち上がった。
「あの、外で。――いいですか」
緊迫した僕を温和な笑顔で包んだ秋生さんは、そっとバーテンダーに目配せをして支払いを済ませた。
「さあ、行こうか」
僕の腰を軽く押して外に促す秋生さんは、本当に結果を知らないのだろうか。
疑いながら店の外に出た僕は、人気のない非常階段に秋生さんを誘った。踊り場でカバンを探って封筒を取り出す。堂々と胸を張って見せるつもりが、緊張で手が震えた。秋生さんは僕から封筒を受け取って、内定通知を確認すると「おや」と眉を上げてから困った顔をした。
僕と本気で付き合う気なんて、なかったのかもしれない。
けれど、約束は約束だ。
「約束通り、内定しました」
「ずいぶん前の約束を、きちんと覚えていたんだな」
からかっているのか、ごまかそうとしているのか。秋生さんはおどけた顔をした。
「秋生さんもでしょう?」
秋生さんはどちらとも取れる表情をうかべて「おめでとう」と言ってくれた。
「これで秋生さんは僕の恋人です。――いいですね」
「約束は守るよ。……こんなに一途な思いを無下にはできないからね」
僕は秋生さんの手首を掴み、はやる気持ちのままに性急なキスをした。
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