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第11話

 締め切ったカーテンの隙間から差し込む陽光はオレンジだから、明け方か夕方なのだろう。  喉がカラカラだ。  気を失っている秋生さんの上から離れて、台所に入った。目に留まったコップに水を入れて一気に飲み干す。もう一杯、水を汲んで今度はゆっくり飲みながらリビングに戻った。  ソファに横たわる秋生さんを見下ろしながら、水を飲む。体液にまみれた秋生さんは眉根を寄せて、深くゆっくりと呼吸をしていた。体中に無数のうっ血。僕がつけた、僕のものだというしるしだ。  秋生さんの隅から隅まで指でたしかめ、舌を這わせて味わった。体の奥に僕のかけらを注ぎ込んで、それが泡立つくらいに熱を穿った。体が空っぽになるくらい、夢中になって。  それなのに、まだ満たされない。秋生さんが足りない。想いをぶつけきっていない。  見下ろしているうちに、ムクムクと欲が頭をもたげる。出し尽くしたはずが、眠っている間に回復したらしい。ミイラになるまで秋生さんの中で果てたら充足を得られるのかな。でも、そんなことをすれば、その後は僕じゃない誰かに秋生さんを取られてしまう。  物憂い。  この気持ちはきっと、その言葉が当てはまる。  悩ましい。  これもいいかもしれない。  ローテーブルにカップを置いて、指先で秋生さんの輪郭をなぞった。薄く開いた唇から、秋生さんの息が漏れている。唇でそれをすくっていると、秋生さんが目を覚ました。 「ん……、ぅ」  ぼんやりと滲んだ焦点が結ばれて、僕に定まる。 「…………琢磨くん」  息を吸いながら呼ばれて、気だるい色香に背筋がゾクゾクした。 「はい」  ささやきながら唇を重ねると、秋生さんはなおざりにキスを返しながら視線を流した。 「いま、何時なのかな」 「わかりません」 「……確認しようとは思わないのか」 「秋生さんを見ていたいから」  クスリとあきれを鼻から漏らして、秋生さんが身を起こす。それにつられて僕も動いて、ソファに並んで座った。  大きな息の塊を吐き出した秋生さんは、とても疲れている様子で指を組み、その上に額を乗せてうつむいた。 「秋生さん」  肩に唇を当てると、秋生さんは枯れた声で「水を」とつぶやく。僕は立って秋生さんのために水を汲んできた。秋生さんは一気に飲み干し、深々と息を吐くと視線をさまよわせて時計を見た。 「……ああ、午前と午後のどっちだろう」  かすれた声に、秋生さんの喉はまだ乾いていると判断して立ち上がる。僕がふたたび水を汲んで戻る間に、秋生さんはテレビをつけて午後のニュースに顔をしかめた。 「夕方なのか」 「みたいですね」  カップを受け取った秋生さんは、喉を鳴らして水を飲む。動く喉仏に触れたくて手を伸ばすと、指先を噛まれた。チリリと甘美な痺れが走る。 「秋生さん」  キスがしたい。それ以上も――。  身を寄せれば、頬にキスをされて抱きしめられた。 「お腹が空いたな」  そう言われれば、この部屋に来てから秋生さんしか食べていない。正確には、秋生さんの体液と水のほかにはなにも胃袋に入れてない。秋生さんも、僕のかけらと水のほかには口にしていない。 「なにかあったかな」  立ち上がった秋生さんがふらついて、あわてて体を支える。ほほえんだ秋生さんと台所に行って冷蔵庫を開けた。卵と牛乳、ソース種のほかにはなにもない。冷凍庫には温めるだけでいいパスタと冷凍うどん、冷凍チャーハンがあった。冷蔵庫の横には食パン。  秋生さんも、僕と変わらない普通の独身男なんだな。  唐突に悟って、心の視界が開けた。  背伸びをしていた自分がバカみたいだ。胸の奥がクスクスとざわめいて、体が震える。秋生さんは弱った顔で「なにか食べに出ようか」と聞いてくれたけど、どこにも行きたくない。  ここで、秋生さんとふたりきりで過ごしたい。 「ピザでも取りましょうよ」  そうすれば部屋の中にずっといられる。ピザが来るまで秋生さんと肌身を重ねて、キスを交わして、ピザが届いたら受け取って、食べながら脚を絡めて、食べ終わったらピザ味のキスをして――。 「いけないことを考えているね」  コツンと額を叩かれる。 「いいことしか考えていません」  ふうんと疑いの笑みを浮かべた秋生さんは、僕の髪にキスをして決定事項を告げる声音で「外に出よう」と僕を抱きしめた。 「嫌です」  ギュウッと秋生さんにしがみつく。 「嫌でも、外に出るんだ。シャワーを浴びて、衣服を整えて、外に出る」 「しなくてもいい方法があるのなら、それをしないでいたいです。――まだ日曜日です」  明日の朝になれば、嫌でも外に出なければならなくなる。会社に行って、仕事をして、生活費を稼ぐ。  なんてつまらない時間だろう。 「このままずっと、秋生さんと閉じこもっていたいです。食べるものを取りに行くときにだけ離れて、あとはずっと……」  ふたりだけの時間を過ごしていたい。 「体力が保たないな」  苦笑に髪をくすぐられる。 「違うんです! べつに、しなくてもいいんです。……ただ秋生さんといられたら、秋生さんを独占できたらそれでいいんです。秋生さんとキスをして、指を絡めたりして、それで、傍にいるってことが当たり前に過ごせたら」  そんな日々が送れればいい。そんな時間を求めている。僕が執拗に秋生さんを抱き続けたのは、そうしなければ秋生さんを得られないからだ。  自信がない。自信が欲しい。確証なんて形のないものだってわかってる。それなのに欲しがっている僕の幼さが情けない。それなのに求めてしまう。秋生さんの時間を物理的に支配しないと収まらない。生きてきた時間の差をすこしでも埋めたくて、一秒でも傍にいたい。  秋生さんの首に擦りついて、鼻孔に触れる秋生さんの匂いを肺の奥に深く吸い込む。秋生さんの匂いを血液に溶かして、体中に巡らせる。秋生さんの血の中にも僕の匂いが溶ければいい。 「動物みたいだな」 「え?」 「ペットは飼い主が帰ってくると、満足するまで擦りついて離れないと聞いたことがあるよ」 「それは、僕が犬か猫みたいだってことですか」  首輪を着けていたのは秋生さんなのに。――僕が送った首輪は、秋生さんの首にキスをするのに邪魔だったから、外してリビングルームの床に転がしてある。 「うん、まあ……そうかな」  頭を撫でられて、うれしいのにすごく嫌だ。 「僕は秋生さんにとって、都合のいいときにかわいがるペットみたいなものなんですか」 「うん?」 「どうしていままで、金曜の夜以外は僕と過ごしてくれなかったんですか。藤岡さんの誘いはあっさり受けたのに、どうして僕の誘いは断っていたんですか。――どうして、昨日は受け入れてくれたんですか」  しっかりと秋生さんの視線を捉えて問いかける。秋生さんは瞳を柔和に輝かせ、僕の額に額を置いた。 「君は、若い」  甘美な酔いを誘う声で、秋生さんはささやく。 「俺は、見ての通りだ」 「…………だから、なんだっていうんですか」  うん、と秋生さんが恥ずかしそうに鼻を鳴らす。 「君はいつか、俺に飽きると思っていたんだ。だから、金曜の夜にしか会わなかった。ほかに目を向ける時間を作ろうと思ってね。それが年長者の務めだと考えたんだよ。俺を追いかける君が、憧れという夢から醒めたときのために」 「そんなの――」  言いかけた唇を指先で止められる。 「琢磨くんは飽きるどころか、ますます俺に夢中になった。獲物を追いかける獣のように、俺を追いかけて手に入れようとした。……出会ってから、どのくらいかな。二年? 三年? よく飽きないね」 「飽きるってなんですか」  ムッとして声が尖った。 「僕が飽きると思っていたから、金曜日にしか会わなかった? なんなんですかそれ。僕の気持ちはわかっているって、秋生さん言ってましたよね。わかっていて、そんなことを言うんですか? わかっていて、そんな……、そんなこと…………」  激しすぎる気持ちは、言葉にならずに暴れまわる。渦巻く感情にめまいを覚えた僕の唇に、秋生さんはそっとキスをした。 「ごめん」  どういう意味の謝罪ですかと問おうとしたら、涙がこぼれた。 「ごめん、琢磨くん。……ごめん」  秋生さんの唇に涙をぬぐわれる。意味がわからなくて、気持ちに添った言葉が見つからなくて、泣き続ける僕を秋生さんは深く抱きしめ「好きだよ」と苦しげに吐き出した。 「君が好きだ、琢磨くん」 「っ、秋生さん」  しゃくりあげる僕に、秋生さんは「好きだ」と繰り返す。 「意地を張っていたんだな。それと、君の熱量に圧倒されていた。見くびっていたのかもしれない。なんにせよ、俺は真っ向から君の気持ちを受け止められないと逃げていたんだ。――ついでに、自分の心からも」  秋生さんが僕から離れてリビングルームへ行く。ぼんやりしながらついていくと、秋生さんは首輪を拾って僕の手に握らせた。 「着けてくれないか?」  よくわからないまま、秋生さんの首に首輪を着ける。うん、と納得しながら首輪をいじくった秋生さんは、はにかみながら僕の手を取った。 「俺の飼い主になると言ってくれたね」 「――はい」 「躾をするとも」 「言いました」  なにが言いたいんだろう。秋生さんはそこで言葉を切って、照れくさそうに視線をさまよわせる。大切ななにかを告げられるんだと直感して、僕は秋生さんの言葉を待った。  唇を開いては閉じる秋生さんを見つめる。秋生さんは気合の入った息を吐き出し、背筋を伸ばすと僕の手を痛いほど握りしめた。 「飼い主なら責任を持って俺の世話をしなくちゃならないな。だから、君はここに住むといい」 「え?」  だから、と秋生さんは真っ赤になる。 「俺ひとりで住むには広いから、琢磨くんが移り住んでも問題はない。それで君の気が済むのなら、……ああ、違うな」  秋生さんの緊張が伝わってきて、心臓がバクバクする。 「とにかく、その、なんだ……。ともに生活をしたら、会社ではきちんと仕事をするだろう? そのほうがいいと思うんだ。誰も来ないからと会議室であんなことをすることに慣れて、油断して問題が起こっては困るし。仕事とプライべートが混同するのはよくないからね。――だから、ああ……、違う。こういう分別くさいことを言いたいわけじゃないんだ」  下唇を噛んだ秋生さんの気持ちに気づいて、足元がふわりと浮き上がる。 「秋生さん。それって直訳すれば、恋人として同棲をしようってことでいいですか?」  確認すると、秋生さんは耳まで真っ赤になってコクリとうなだれた。ぶわりと体中が喜びに膨らむ。 「ああっ!」  叫びながら秋生さんを抱きしめる。 「これから、プライベートも秋生さんと過ごせるんですね!」 「幻滅するかもしれないよ? 一緒に住めば嫌なところも目についてしまう」 「そこもひっくるめて愛するので、大丈夫です。秋生さん、愛しています、愛してる」  繰り返しながらキスをする。秋生さんは困った顔でほほえんで首をかしげた。 「俺が素直になれるように、うまく躾をしてくれるね?」 「もちろんです。いつか飽きるなんて考えが消えるくらい、僕がどれほど執念深いか身をもって知ってもらいますよ」 「入社するために努力したように?」 「あれよりももっと情熱的に根気よく、秋生さんが素直になれるよう躾をします! なんせ僕は秋生さんの飼い主なんですから。年上の分別なんて邪魔なクセを、取り払ってみせますよ」  自信満々で請け負うと、秋生さんは僕に身を寄せてきた。かわいくて愛おしくて強く抱きしめる。  秋生さん、愛しています。ああ、やっと僕の手の中に――。  不謹慎な腹の虫が鳴いて、僕たちは笑いあった。 「シャワーを浴びて、食べに出よう」 「嫌です。出前にしましょう」  秋生さんと離れたくない。  鼻をつままれて、ダメだと言われた。 「明日、会社に行けなくなる。俺の体力のことも考えてくれ。ペットの体調管理も飼い主の責任だろう?」  自分をペットと称した秋生さんが楽しそうで、渋々ながら納得する。 「そう、ふてくされないでくれ。からかいたくなる」 「なんですか、それ。僕が子どもだからですか?」 「愛おしいから、だよ」  いたずらっぽく片目を閉じた秋生さんは、魅惑の言葉に驚く僕の腕からスルリと抜けた。 「シャワーを浴びて服を着て、人間らしい時間を過ごそう。それぞれの家に帰って会社に行って、週末には獣のように愛し合えばいい。――ああ、琢磨くんの引っ越しの手続きを進めないとな」  蠱惑的な流し目を残して、秋生さんは浴室へ消えてしまった。秋生さんの気配がそこかしこにあるリビングルームで、僕はぼんやり立ち尽くす。 「秋生さん」  夢じゃないのか。  思い切り脇腹をつねった。ものすごく痛い。 「秋生さん!」  バタバタと秋生さんの後を追う。  人間の時間に戻るまでの間、すこしでも多く獣のように本能に従っていたい。  淫靡な行為をしたいわけじゃない。ただ寄り添って、互いの存在を意識に触れさせながら過ごしたいんだ。秋生さんがいて、僕がいるという事実を噛みしめたい。当たり前にしたい。だから――。 「秋生さん。秋生さんも僕の飼い主になって、躾をしてください」  互いが互いの飼い主になって、生きるために必要な躾をしながら暮らしましょう。  秋生さんは、はじめて会った日とおなじ笑顔を浮かべて、僕を浴室に招いてくれた。 ーEND-

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