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しょっぱくて、甘い。

「はあっ、なんて切ない……。最後の最後に、舞台から落っこちちまうなんて……。私たちにも奈落に落ちる事故は稀にありますから、本当に他人事じゃござんせん」 夕暮れを逆再生するように明るくなった映画館で、白帆はまだ椅子に座ったまま、真っ白なハンカチを左右の目に交互に押し当てていた。  舟而は白帆が泣き止むまで一緒に隣の椅子に座り、背広のポケットからキャラメルの箱を差し出すと、白帆は目を赤くして洟を啜りながらも、しっかりキャラメルを摘み、蝋引きの薄紙を丁寧に剥いて、口の中へ入れた。  頬が四角く膨らんで、白帆は笑顔を取り戻すと、勢いよく立ち上がった。 「さぁ、先生。参りましょう! 早く、早く!」 「待っていたのは僕のほうなのに」 舟而は苦笑しながら立ち上がり、二人は柳の緑が風に揺れる道を歩いた。  流れるように走る車と日比谷公園の緑を見ながら一丁ほど歩くと、直線で構成された池と、煉瓦造りの建物が見えてくる。 「いつ見ても、この建物は十円玉のお寺みたよな造りですねぇ」 白帆の感想に、舟而はいつも首を傾げるが、そのたびに白帆は言葉を重ねる。 「だって先生、手前にお池があって、建物が映りますでしょ。そして御堂があって、両脇に屋根のついた回廊と建物! 新しい十円玉のお寺そのものじゃござんせんか」 白帆は細い指の先でがま口を開けると、最近出回り始めた新十円硬貨を取り出して、舟而の顔の前に突きつける。  舟而は素直にうんうんと頷いて、ロマンスグレーの髪を風に揺らしながら笑う。 「お前さんは感じ取る力が強いからね。もしやそうかも知れないね。フランスで印象派の画家が浮世絵を真似たように、日本の美術を取り入れる外国人は、ほかにもいるだろうからね。ライトも平等院鳳凰堂を参考にしたかも知れないね」 長く連れ添って、舟而は白帆の口には勝てないことを知っているし、白帆は舟而に柳の枝のように受け流されたらそれ以上は勝てないことを知っている。  白帆は十円玉を財布に戻し、がま口をぱちんと締めて、舟而と共に帝国ホテルの玄関に向かって歩いた。  煉瓦の間に積まれた大谷石の白が縞模様を作る玄関は、近付くと複雑に彫刻されたテラコッタの柱が光を透かしているのに気づく。  大谷石の階段は、白帆の着物の裾が乱れない高さでつけられていて、客は足元に気取られることなく、自然と建物の中へ迎え入れられる。  プロペラのような回転ドアを押して入ると、ロビーのやや低い天井の下で頭を撫でられるような落ち着きを感じ、さらにリズムをつけるように数段の階段を上がれば、ホワイエの吹き抜けで頭上の雲が晴れるような心地になる。  身なりを整えた客とベルボーイが行き交う中を歩き、複雑な彫刻が施されたテラコッタと大谷石の柱を回り込むように階段を上がって、二人はティールームへ辿り着いた。  舟而が名前を告げると窓際の席へ案内される。 「矢羽根みたよな椅子ですね」  フランク・ロイド・ライトが帝国ホテルの建物と同時にデザインした椅子は、孔雀の羽をかたどったピーコックチェアと命名されていて、六角形の木製の背もたれに矢羽根型のクッションがついていた。 「ふふっ」 白帆は椅子に腰掛けると、背もたれに寄り掛かる前に、まずメニューに書かれた文字を見て切れ長な目を細める。  舟而は背もたれに上体を預けながら白帆の笑顔に目を細め、軽く手を挙げてウェイターを呼んだ。 「ホットケーキを一つ。コーヒーを二つ」 「あら、先生もホットケーキを注文してくださいな。メープルシロップを掛けて頂くんですよ? 私のホットケーキを半分なんて差し上げませんから!」 メニューを握り締めて訴える白帆の顔を見て、舟而はあっさり降参した。 「ホットケーキも二つにしてくれたまえ」 「かしこまりました」 メモも取らず、聞いて覚えて、ウェイターはメニューを手に立ち去っていく。 「それにしても素敵な映画でした」 「ああ、ペーソスに溢れた映画だったな。痛快なだけではない、人間のおかしさと哀しさ、人生の浮き沈み、栄光と没落、そして愛情のベクトル。全てが上手いこと合致するなんて、なかなか奇跡なんだ」 「さよですねぇ。人生には、こんなふうに天国と地獄が隣り合わせだったり、天国と地獄の両方が二人に向かって同時に訪れる瞬間もあるんでしょうね」 「ああ。僕たちだって、意識しているかどうかは別として、人生の浮き沈みはあるんだろう。客観的に見ればわかる波形も、本人たちにとっては日々の暮らしに過ぎないということも、よくあることだ。それをあんなふうに描くとはね。僕もますます書かなくてはいけないな」  二人はいつもの習慣で芝居の材料になりそうなものを探し、八角形のテーブルや、テラコッタタイルを張り巡らせた床などを見回して、視線がぶつかると揃って肩を竦めた。 「ランデブーの最中に仕事のことを考えるとは、野暮天だな」 「ふふっ。今の若い人たちは、デートって言うんですよ、先生」 「あんまり新しい言葉は照れくさい」 先に運ばれてきたコーヒーに口をつけながら鼻に皺を寄せて笑う姿に、白帆は両手で持ち上げたコーヒーカップへ顔を埋めるようにしていたずらっぽく笑う。  二人がコーヒーカップ越しに視線を交わしていると、温かな匂いを伴ってホットケーキが運ばれてきた。  使われている皿も、フランク・ロイド・ライトによるデザインで、雨が降り注ぐ水面のようにさまざまな円が重なって、幾何学模様を成していた。その皿の上に、丸いホットケーキが載せられ、溶けたバターが透き通ってきつね色の生地の上を滑る。 「まあっ、三段も重なってます!」 白帆は目の前に置かれたホットケーキを見て、両手を胸の前で合わせ、歓声を上げた。 「お前さんが嬉しそうにしていると、いい気分だ。天国だな」  舟而はフォークの先でバターを突いて、表面に塗り広げ、さっとナイフを差し込む。 「あら、先生。肝心のシロップを忘れてます」  白帆が着物のたもとを左手で押さえながら、メープルシロップの壺を舟而に差し出した。 「僕はいいから、お前さんが全部使いなさい」 「そんなに譲ってくださらなくても、ちゃんと半分こに致しましょっ」 壺を傾け、舟而のホットケーキの上に、琥珀色の液体がたっぷりと掛けられる。 「ああ、そんなに……っ。僕は少しでいいんだ、少しで。少しで!」 フォークの背にまで、芳しいメープルシロップがとろりと掛かり、舟而は小さく息を呑んだ。 「メープルシロップだけを舐めるようだな……」 「子どものいたずらみたよですね。たまには、そういうのもよろしいじゃござんせんか。先生はいつだって私にばかり食べさせて。『僕はいいから、お前さんが食べなさい』って仰ってばかり。天国と地獄に分けないで、天国も地獄も一蓮托生、ご一緒致しましょ」 白帆は舟而のホットケーキに半分よりも多くメープルシロップを掛けると、残りを全部自分のホットケーキに掛けて、満足げな笑みを浮かべた。 「さて、私もいただきましょ。バターの脂肪が溶けてしょっぱくて、メープルシロップが甘くて、どこまでも繰り返し食べることができますね。人生はいろんなことがございますけど、涙のようなしょっぱさと、こうやってデートするよな甘さが繰り返しやって来るから、私たちも長く一緒にいられるんでしょうねっ」 白帆は皿の上のメープルシロップを残らず染み込ませたホットケーキを口に含み、湯に浸かったような笑顔を見せる。 「ああ、お前さんの言うことはもっともだね。一つの舞台やテーブルの上で、天国と地獄が繰り返されて、死ぬまで一緒にいるんだろう」 舟而は甘さに喉が痺れるのを感じながら頷いた。

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