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友白髪

 風呂場に新聞紙を敷き、裸の肩に風呂敷を羽織って白帆は座る。年齢を重ねても手入れを怠らない肌は真珠色に艶めき、衣装を着て舞台の上を動き回る身体は細いながらも確りとしていた。  舟而はゴム手袋を嵌めた手で染め粉とぬるま湯を椀の中で混ぜて、泥のようになったものを刷毛にとる。 「お手間をお掛けします」 「なんの。お前さんの髪に触れるいい口実だ」 「染めると傷むとわかっていても、役者の髪は黒い方が都合がよくて」 「ああ。黒く染めておいて、役に応じて白い毛をどこに増やすかを工夫するほうが、表現の幅が広がるからな」  舟而は壊れた置き時計を直すかのような真剣な目をしながら、そっと白帆の髪を掻き分け、根元の白いところを見つけては刷毛を動かす。 「私、自分の髪の毛が白くなってきたり、昔のようには飛んだり跳ねたり走ったりできなくなってくるのを感じると、歳をとるって寂しい感じがするんです。けど……」 「けど?」 「そういうときに自分の年齢から、先生とお会いしたときの年齢を引いてみるんです。すると、たくさんの数が残るのが、本当に嬉しく思えるんですよ」 白帆はふふふっと切れ長の目を細める。 「僕たちは出会ってから何年経っている計算だい?」 「四五年でございます」 「なかなか誇れる時間の長さだね」 「さよですね。いろんなことがありましたけど、よくまぁここまで参りました」 舟而は髪を掻き分けたまま、刷毛を動かす手を止めて、白帆の顔をのぞき込む。 「お前さん、ひょっとして今年の暮れにはチャンチャンコかい」 白帆は真珠色の頬を染め、口の前に揃えた指をあてて小さく笑った。 「さよですねぇ。チャンチャンコより、真っ赤な薔薇を頂きとうございます。空襲で燃えちまいましたけど、先生が受賞祝賀会のときに下さった薔薇の花束は、本当に嬉しゅうございました」 「乾かして、随分長いこと大切にしてくれていたね」 「『一蓮托生で頼むよ』なんて言葉と一緒にあんな花束を渡されたら、そりゃあ、感激しちまいますよ」 白帆は当時の自分が目の前にいるかのように目を細める。 「昨日のことのように思えるね」 「さよですとも。気持ちは簡単にタイムトリップしちまうんです」 「僕たちの髪は友白髪で、気持ちは四五年の月日を自在に行き来することができて、そのどこにも嫌な思い出がないだなんて、まったく百点満点の人生じゃないか」 舟而の晴れやかな声が風呂場に響いた。 「ええ、本当に。初めて先生のところへお願いに上がった日も、こんな陽気でした」  白帆は開けてある風呂場の窓から空を見て、ふんわりと表情を緩める。そして胸の前で両手をぱちんと合わせた。 「ねぇ、先生! 今夜は先生のお好きなコロッケを作って、私たちの四五年の誕生日をお祝いしましょ」 「それは名案だ。僕はケーキを買ってくるよ」  天窓から夕焼け色の光が差し込み、蛍光灯の白い光が灯る下で、白帆特製のコロッケが、台所のガスコンロの上で威勢のいい音を弾けさせ、狐色に揚がっていく。 「白帆は焼きおにぎりも美味いけど、コロッケも本当に美味い」  舟而は片襷に前掛け姿の白帆の隣に立って、揚がったばかりのコロッケをさっと掠め取って、息を吹きかけながら食べてしまう。  白帆はフライ鍋に向かったたまま、ちょっとお尻を横へ突き出して、舟而の腰のあたりへぶつけ、つまみ食いを窘めるような、そうでもないような。  舟而が白帆の尻をぽんっと叩いて応戦すると、白帆はスリッパを履いた片脚を後ろにちょいと跳ねあげて笑った。 「先生がコロッケがお好きだからって、お夏さんに最初に教わったお料理の一つです」 「夏のことをたまに思い出すけど、いい思い出しか出てこないんだ」 「私もでございますよ。お夏さんのお人柄ですね」  予定より数が減ったコロッケをテーブルに並べ、ご飯と味噌汁と煮物を添えて、ウスターソースを掛けたコロッケを改めて頬張る。 「本当に出来すぎた女房だな、白帆は」 「まあ、嬉しい」 白帆は真珠色の手で胸元を押さえて笑顔を咲かせた。 「ずっと昔、書くと言ったきり、書けずに置きっ放しになっている話がある。いつも頭の片隅にあって気に掛かっていたんだけれども、お前さんと四五年も添い遂げてきた今なら、僕は書けるような気がするよ」 「どんなお話なんですか」 「やっぱり自分の女房が一番いいという話さ。最期はその女房の膝の上で。僕の理想だよ」 「ふふ。そのときが来たら、私の膝で送って差し上げます」 「ぜひともそうしてくれ。もう両親も、僕の兄も向こうにいるし、僕だってこんな歳になって、昔より向こうの世界は身近なんだ。今までほとんど書いたことはないけど、旦那が死んで、女房に弔ってもらうところまで、書いてみたい」 「よろしゅうございますね」 「ああ。……さあ、ケーキを食べようか。誕生日ケーキを買ってきたよ」 舟而は冷蔵庫を開け、白いバタークリームを王宮の屋根のように絞って、宝石のように真っ赤なイチゴを乗せたケーキをテーブルの上に置いた。  電気を消して、ロウソクの灯りだけになると、舟而は大きく深呼吸をし、不器用に白帆の手を掴んで、やっぱり言葉は出てこずにそっぽを向いた。  白帆は切れ長の目を優しく細め、舟而の手にさらに自分の手を重ねた。 「先生、お慕い申し上げております」 「う、うん」 「四五年経っても、私たちは変わりませんね」 「原稿用紙に素直に書くのは、そんなに下手じゃないと思うんだけど。どうにもお前さんと二人きりで、面と向かってというのは、上手くできないな」 「ふふふ。一緒にロウソクを吹き消しましょうか」 ふうっとロウソクの炎へ息を吹きかけ、部屋の中が暗くなると、白帆の唇には、弾力のある舟而の唇が重なった。  翌朝、舟而は書斎で万年筆を握ると、プロット用紙に向かった。 「タイトルは決めてある。『終の女房』だ」 書斎に入る光が、舟而の顔を明るく照らしていた。

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