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日比耀一の帰り道

 日日新報 編成局 文化部記者の日比耀一(よういち)は原稿を直し終えて提出し、本社のビルヂングを出る。  雨の中へ黒い洋傘(こうもり)を広げ、その下に自分の身体を入れて、背広の肩を濡らすなどという抜かりはなく、新常盤橋の電停から市電に乗った。  遅い時間だからだろうか、車内は一組の訳ありそうな男女と、風呂敷包みを抱えた老婆が乗っているのみで、耀一は老婆の(はす)向かいに座り、昼間、伝法院の滝を見ながら触れた白帆のさらさらとした黒髪など思い出していた。  日本舞踊の稽古場で牡丹模様の浴衣を着ていた子供の「腰から下と上が、全然違って動くの。伝法院のお池の滝みたいに、いろんなほうへお着物が流れて見えんの、すてきよね」という言葉を思い出していた。 「あの言葉はなかなか的確だった。子供の語彙力も侮れないな」 オイルを塗った木の床を見ながら、今日一日の出来事を思い返す。 「縁がないね」 顔を上げると目の前に、斜向かいに座っていたはずの老婆が立っていた。 「あんたに縁がないって言うより、その子にはとてつもなく強い縁で結ばれている人がいて、勝ち目がない。その子の相手は手間の掛かる、世話のやける色男で、まあ苦労するだろうね。あんたと一緒になるほうがどれだけ楽か、その子もよくわかっているよ。……でも、無理だなあ」 耀一が不信感を込めて睨みつけても、老婆はひひひと笑うだけで、隣の席にぴょんと飛び乗るように座り、老婆とは思えない力の強さで耀一の手首を掴むと、手のひらを返して覗き込む。 「ふんふん、あんたもちゃんとまとまる人がいるよ。今日、黒髪のおかっぱ頭の男の子と会わなかったかね」 「会いましたけど」 「あんたが今思い浮かべた子じゃないよ。それは色男に苦労する子だ。もう一人、あんたと会ったおかっぱ頭の男の子がいるはずだ、その子と縁があるよ」 今日一日の自分の行動を振り返っている間に、老婆は降りていってしまった。 「あの老婆の『縁がない』は、当たっていた訳か」 勝者の余裕か、舟而に『僕がだれてしまったせいで白帆を困らせたし、日比君にもその迷惑が行ったと思う。嫌な思いをさせて済まなかった』と真摯に頭を下げられては、今までどれだけ白帆を振り回したのかと胸倉を掴む訳にもいかない。  さらには白帆までもが『私は地獄までも先生について参りますから』と笑うのだから、勝ち目はなかった。  本所区の借家を背に吾妻橋を渡り、雷門までやって来て、失恋の痛みと空腹を同時に満たそうと、蕎麦屋へ足を踏み入れた。 「いらっしゃいませ」 案内された卓へ座って、原稿が入った鞄をごそごそしていたら、小さな影がお茶を運んできた。  「白帆ちゃんとこの、のっぽのおじさん。こんちは」 「ああ、日本舞踊のときの」 白帆の踊りを伝法院の滝に喩えていた牡丹模様の浴衣の子だ。 「あ、のっぽのおじさんだ!」 桜模様の浴衣の子もやって来た。二人ともおかっぱ頭で、よく見ると顔も似ている。 「姉妹か?」 「双子。さくらが妹」 おかっぱ頭をぴょんっと揺らしたが、さくらは母親に呼ばれて店の奥へ行ってしまった。 「さくらは身体が弱いから、ときどきお医者さんに注射に行くんだ」 「大変だな。痛いだろうに」 「でも帰り道にお菓子を買ってもらえるんだって。ずるい」 「お菓子より、健康なほうがいい。……お菓子ではないが、この櫛をやろう」 渡せずに懐へ入れたぎりになっていた包みを渡す。 「いいの?」 「いいよ、わたくしはそんな柘の櫛は使わない」 包みの中から出てきたのは、牡丹の花を浮かし彫りにした、小さな柘の櫛だった。 「すてきね。大切にする」 真っ直ぐで艶やかなおかっぱの髪をするりと梳いて見せてから、天せいろを運んできた男性に櫛を見せる。 「お父様、頂いたの!」 男性は子供と日比の顔を見比べた。 「こんな立派なもの、よろしいんですか」 「ええ、使ってください」 「牡丹、お礼は言ったのか」 「ありがとうございますっ!」 柘の櫛を胸に抱いて、牡丹はおかっぱの髪を揺らした。 「ウチの(せがれ)は白帆丈に憧れていて、いずれは女形になりたいようでねぇ」 「倅っ?! 男の子なのか」 江戸らしい(から)いかえしのつゆが入った蕎麦猪口を持つ手を滑らせそうになって慌てた。 「うん。だから大きくなったら白帆ちゃんみたいな女形になる!」  夢を疑わない真っ直ぐな笑顔に鼻白み、日比は箸先で蕎麦をつまむと、半分ほどをつゆにつけて、そのまま喉の奥まで啜った。 「わかっているのか。白帆丈のようになるには、たくさん稽古をしなければいけない」 「うん! あとね、ご本のおじさんが言ってたんだけど、白帆ちゃんは難しいご本をたくさん読むんだって。だから、あたしもたくさんご本を読んで、お勉強する」 「いいことだと思う。読書は楽しいし、心も養う」 燿一が天せいろを食べる間、牡丹は隣の椅子に座り、赤い本天の柔らかな鼻緒をすげた足をぷらぷらと動かしながら、柘植の櫛を両手の中に包み込むようにして、小さな声でずっと歌を歌っていた。 「ごちそうさま」 代金を支払って、雷門の電停まで歩く間、ずっと牡丹はついてきた。 「おじさん、どこまで行くの?」 「新常盤橋。会社に戻って仕事をするんだ。……それとわたくしは牡丹の叔父さんじゃない。日比燿一という名前がある」 名刺を一枚取り出して二つ折りにすると、手毬模様のがま口の中へ押し込んでやった。 「燿一さんでいい?」 「いいよ。じゃあな」 特に手を振るでもなく、燿一が市電に乗り込む頃には、牡丹は背中を向けて来た道を引き返していた。艶やかなおかっぱの黒髪が昼の光に柔らかく光っていた。 「黒髪のおかっぱの男の子。まさか、な」  日比は強く頭を振った。
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