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第191話

 翌朝、遥が目覚めたとき、頬には如月の髪が触れていて、如月はまだ眠っていた。規則正しい寝息が温かく遥の胸にかかる。  桜餅色のボクサーブリーフ一枚でダブルベッドの上に起き上がり、開かない目を強く瞑って開けて、ミルクティ色の髪を掻き上げた。 「日本酒って眠くなるのん……」  コンビニで買ったパンツを手にバスルームへ入って、頭から湯をかぶる。 「遥ちゃんのパンツがどんどん地味になっていくのん。研究室に泊まるとか、如月の部屋に泊まるとか、学部生のやることじゃないのよー」  整髪料がぬるぬると身体を流れていく。如月のバスルームにはリンスインシャンプーしかなくて、遥は仕方なく二度洗いで整髪料を洗い流した。 「稜而が家にいない今、ここに自分のシャンプーやパンツを置くようなことをしたら、絶対、家に帰らなくなるのん。一日使用済みパンツを持ち歩くのは嫌だけど、絶対に置いて帰るもんですか、なのん」  そう決意を口にしながら脱衣スペースで身体を拭き、つい最新型の全自動洗濯乾燥機に目を惹かれる。洗濯物の量もそこそこあって、申し分ない。  遥はコンビニで買ったパンツを穿くと、一筆書きに2LDKを歩き回って洗濯物をかき集め、自分のワイシャツと桜餅色のパンツと靴下も突っ込んでスイッチを入れた。 「洗って乾かして、大学の帰り道にここへ寄って持って帰ればいいんだわ! ……ひゃあああああ!」 「なんだ朝っぱらから」 不機嫌な如月の声に、遥は洗濯機の前から怒鳴る。 「ワイシャツ、洗っちまいましたのん! 裸にネクタイとスーツはイヤぁぁぁ!」  洗剤を混ぜた水が容赦なく自分のワイシャツに噴射されるのを窓越しに見て、遥はがっくり膝をついた。 「如月、シャツを貸してくださいませなのん……」 如月のワイシャツは大きすぎて不格好で、結局シンプルな白Tシャツを着た上からベストとジャケットを着た。 「カジュアルダウンしたお洒落な着こなしってことにしますのん」 鏡の前で強引にニッコリ笑う遥の後ろでネクタイを締めながら、如月が遥の姿を一瞥する。 「いくらカジュアルダウンしたとはいえ、クラスオリエンテーションに三つ揃いを着てくる奴はそうそういないだろうがな」 「おーいえー。入学式と日にちを間違えたみたいに見えるのはイヤなのん。学校に着いたら白衣に着替えるんだわ」  遥は如月研究室のロッカーでジャケットを白衣に着替えてから、四月一日と一緒に台車を押して書類を運び、教壇の上に立ってクラスオリエンテーションを始めた。 「実習で必要になりますので、聴診器と白衣は必ず一八日までに大学生協へ申し込んで下さい。十九日以降の申込みはネームが入りません。それでも月末までには申込みしてください。ちなみにウチの大学の白衣はこんな感じ! これが見本です」  左胸ポケットにJ.Kisaragiと刺繍されている白衣を着てくるんと一周して見せ、遥は当たり前の顔で押し通す。教室の一番端の席に座っていた如月のほうが 「なーにが見本だ、ばーか。調子のいいこと言いやがって。着る物がなかっただけだろうが」 と笑い顔を伏せ、机の上に組んだ腕の中へ呟いた。  遥はオリエンテーションを終え、 「駅まで一緒に……」 という四月一日を振り切って、如月のマンションへ入り込む。  乾いた洗濯物を取り込み、自分の洗濯物はナイロンのビジネスバッグに収める。そのまま玄関を出ようと思ったところで遥は足を止めた。 「言うか、言うまいか。でも遥ちゃんは言いたいから言うんだわ。それで怒る如月じゃないって思うのん。お節介って思われるとは思うけど」 ダイニングテーブルに向かって座り、ビジネスバッグの中からルーズリーフとペンを取り出した。  背筋を伸ばし、心を込めて『如月潤』と書く。 ----- 如月潤様  すべてに意味と願いが込められている、  素敵なお名前だと思います。  『如月潤』って名前、遥ちゃんは大好きよ。             愛をこめて 遥xxx -----  テーブルの真ん中にキャンディを載せた小皿で重石をして部屋を出た。そのメモは次に如月の部屋へ行ったときにはなくなっていたが、如月から特に反応はなく、ネームは相変わらず布と同じ色の糸で刺繍している。ただ最近、如月の口から『自分の名前は嫌いだ』という言葉は出なくなって、IDカードが少し見えやすくなったような気がした。 「おーい、如月潤ーっ!」 遥は白衣をはためかせ、廊下を歩いていた如月の背中に、小猿のように飛びつく。 「人を大声でフルネームで呼ぶな、恥ずかしい」 「解剖実習、したのん……」 如月に背負われた遥の声はたらんと垂れたしっぽのように元気がなかった。 「ホルマリンの匂いでわかる」 「言葉が出ないんだわ。ご献体の姿や、歩まれた人生や、ご病気や、いろいろ……ぐああああって感じなのん」 「そのショックは忘れないほうがいい。しっかり自分の中で咀嚼しろ」 「おーいえー。晩ご飯作るから、今夜は泊めてほしいのん」 「稜而のところへ行かないのか。金曜日だぞ」 「今夜は運転する自信ないんだわ」 「甘いだし巻き玉子と、この間の何とか汁」 「どっさり汁?」 「ああ、それがいい」 「お安い御用なのん」 遥は如月の背中から降り、研究室のロッカーで白衣を脱ぎ、先に研究室を出てスーパーマーケットで食材を買い、如月のマンションへ行った。 『ごめん、今日は解剖実習で打ちのめされたから、明日の朝、そっちへ行くね』 メッセージを打って、パックされた豚肉に向き合い、包丁にべたりとくっつく白い脂にまた立ち尽くした。 「弟は明日の朝、こっちに来ることにしたらしい」 職員専用駐車場で稜而がスマホのバックライトを消す。 「じゃあ、先生も『瓢箪(ひょうたん)』に行こうよ」 「うん。毎日親睦会だね」 稜而はさらさらと前髪を揺らし、王子様の笑顔で頷く。 「さー、今日も親睦会、昨日も親睦会、一昨日も親睦会!」 中堅ナースの声に皆で笑い、ナースの車と稜而のスポーツカーは病院を離れた。

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