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第190話
「俺はバレンタインデーの日、大学病院のストレッチャーの上で発見された。生後一ヶ月にも満たなかったと思われる俺はストレッチャーの上の毛布に包まれているだけで、身元を示すものは何一つなかったらしい。それで当時の警察署長だか、施設長だか、区長だか、そんな人が俺の名前を決めて、発見された日を誕生日として戸籍が作られた。実際には二月ではなく、一月生まれかも知れないが、そんな誤差はわからない。俺の戸籍は最初から俺一人しかいない」
遥はデスクの上に座り、怪獣の足型ラバーサンダルをゆらゆら揺らしながら、静かに何度も頷いた。
「おーいえー。そういうご事情がおありだったのん。遥ちゃんの戸籍は複雑だけど、如月の戸籍はシンプルなのん」
「お前もかなりいい性格をしていると思うが、信じるだの、赦すだの、安易に言われるとその頭を掴んで泥水に沈めてやりたくなる程度には、俺の性格も歪んでいるし、歪むくらいの出来事には遭遇してきた。苛立ち紛れに犯罪に手を染めず、ここまで来れたのはひとえに大福のおかげだ」
「大福先生は、お父さんなのん?」
ふくふくした笑顔を思い浮かべながら首を傾げると、如月は首を横に振った。
「いいや。制度の説明でよく使われるフレーズは『親戚のおじさん』。そういう距離感らしいが、俺には親戚もいないから、よくわからない。大福には俺と年齢の近い娘がいて、周りの反対もあって里親までは難しかった。その代わりに週末に自宅に泊めて、家庭の雰囲気を味わわせてくれた。フレンドホームとか、週末里親とか、そんな名前の制度がある。さらには医学部六年間の学費を支援してくれたあしながおじさんで、挙げ句、俺が研究を辞めないようにこの席を明け渡してくれた」
「わーお。スーパー篤志家さんなのん」
「俺もそう思う。大福の娘には『潤が一番教育費がかかった!』と今でも笑われる。向こうは国立大学へストレートだったからな」
如月は表情を綻ばせ、目を細めて煙草を吸って、窓の外へ煙を吐く。その横顔は無邪気な少年のようだった。
「大福先生の娘さん、如月の好みのタイプなのん?」
「他人のものに手を出す趣味はない。もう子どももいる」
「あらーん……心中お察し申し上げるんだわ」
「勝手に察するな」
如月は苦笑して煙草を吸い、ゆったり吐きながら呟いた。
「大福にしても、稜而にしても、お前にしても。どこで誰と出会ってどうなるのかは、本当にわからない。一度助かる経験をすると、その味が忘れられなくて絶望もする。本当の絶望は真っ暗闇じゃない」
遥は深く何度も頷く。
「入試面接で『あなたは、死を考えるほど絶望したことはあるか?』って訊かれたのは、そのあたりにお気持ちがあるのかしらん? でも遥ちゃんもそう思うわ。絶望は真っ暗闇じゃない。一筋の希望が見えるから、その対比が際立って絶望するんだわ。本当の真っ暗闇なら、むしろ何も見えなくて知らないまま幸せなのん」
如月は煙と同時に噴き出す。
「お前もかなり歪んでるな」
フィルターを親指の腹ではじいて灰皿に灰を落とし、同時に遥も人差し指で煙草へ軽い振動を与えて灰を落とした。
「如月に褒めてもらっちゃったんだわ」
「褒められると身動きとれないだろう?」
如月がニヤリと嗤い、遥はその目をチラリと見てから肩をすくめる。
「ふふっ。見捨てられれば好き勝手にできるけど、褒められたらその通りにしたくなるのん。目を掛けられ手を掛けられたら、頑張るしかないんだわ。脚の骨が折れるまで」
まだ皮膚には縫合の跡が残る両足をぴょーんと前に向けて伸ばして笑った。
「お前、そんなに背負って疲れないか?」
「もちろん、めちゃくちゃ疲れるのん。でも、嫌いな人にまでニコニコしないで、ターゲットは好きな人だけに絞ってるし、繰り返していくと慣れて体力もついてくるから、そんなでもないんだわ。クラス委員くらい何でもない。それで評価が上がって特待生を継続できるならお安いものよ。……いつまでも稜而と一緒にいたいのん。そのためなら何ともないのよ」
「あいつもいい男だ」
「おーいえー」
「少し歪んだ部分もあるが」
「『如月と遥にだけは言われたくない』って言われそうなのん」
「しかめっ面でな」
如月が眉間に軽い皺を寄せて見せ、遥は手を叩いて笑った。
如月は実験ノートを閉じ、顕微鏡の電源を切る。
「ポリアクリル酸ナトリウムは候補にできそうだ、ということで。久しぶりに飲みに行くか」
「おーいえー、ぽんぽこ亭!」
「ぽんぽこ亭? お前、相変わらず安いな」
「如月のお財布のためなのん」
「お気遣いいただきまして。私大の准教授なりの給料はもらってるぞ」
「駅から徒歩五分の好立地にマンション買っちゃったのん」
「お前が駅前でもらったチラシを片手にモデルルームを見に行きたいなんて言い出すから」
「シップソムが再注目されて大咲製薬の株が値上がりしたから、小さなワンルームを転がすくらいはできるかなって思ったのん。まさか如月が2LDKに手を出すとは思わなかったんだわ。担当のお兄さんに『ご夫婦でお住まいのご予定ですか?』って訊かれたのは心外だったのん! ぐぬぬ」
「心外だったのはこっちだ、ばか。あの営業、今でもお前と俺のことを不妊治療に取り組む事実婚の夫婦だと思ってやがる。生殖発生をどう聞き違えたらそうなるんだ」
ロッカーの前で並んでジャケットを羽織り、研究室を出て鍵を閉め、退勤手続きをして校舎を出る。
春の風が桜の花びらを巻き込みながら強く二人に向けて吹きつけたが、二人は苦笑いと歪んだ言葉を交互に相手へ投げつけながら、まっすぐ風上に向かって歩いて行った。
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