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第189話

 遥はなかなか上ってこないエレベーターに焦れ、非常階段を飛び降りるようにして地下一階の学務課へ行く。 「新・М2-5、如月先生のお使いで来ました、お小姓の遥ちゃんですのーん」 「遥ちゃん、こっちこっち! 今年度も如月先生のお使いなのね、頼もしいわ」 一年間ですっかり顔馴染みになった学務課のお姉さんが、カウンター奥の自席からひらひら手招きしていて、遥は迷うことなくカウンター脇のドアから中へ入る。 「おーいえー、内線ありがとうございましたのん。『遥ちゃんは如月先生のお小姓ですのん』……って冗談で言ってたら、信じる人が出始めてびっくりなんだわ! 遥ちゃんにはもっと素敵なダーリンがいますのよ!」 白衣の裾が床に触れるのも構わずデスクの脇にしゃがむと、引き出しから出てきたお菓子を与えられてもぐもぐする。 「ダーリンは元気?」 「おーいえー! 今月から国内留学に行ってて、最低でも半年くらいは週末婚なのん。でも前期は解剖実習で忙しくなるから、帰宅時間や夕食のメニューを気にしなくていいのはありがたいんだわ」 「そっかぁ。しばらくは『遥ちゃん、今日の晩ご飯は何にする?』って聞けないね」 学務課のお姉さんは左の薬指に銀色の指輪を嵌めている。まだ新しくて、職場結婚した企画広報課のお兄さんと交代で晩ご飯を作っている。 「あ、でもでも昨日作った『どっさり汁』は美味しくてオススメなのん。レシピはお味噌で味付けする野菜たっぷりの豚汁なんだけど、すりおろし生姜と、白いりごまを指先でひねりながらたっぷり入れるのが特徴なのん。入汲の郷土料理っちゃー! ご飯とこのおつゆがあったら、もうもうほかのものは何もいらないっちゃよ。もし箸休めのお漬物があったら完璧っちゃ」 遥はしゃがんでもぐもぐしながら、デスクの上のメモ用紙にさらさらとレシピを書きつける。 「スープジャーに入れてお弁当にもいいっちゃよ」 おまけに遥の自画像とサインを描いてから、ゴミ箱の上でお菓子の粉をパタパタ払って立ち上がった。 「書類、どうしたらいいかしらーん?」 お姉さんに誘導されて、カウンターの上でサンプル用の書類一式が入った封筒をばらす。  学則の改正、避難・帰宅経路の確認、健康診断の案内と問診票、学内を歩く盲導犬ハッピーと使用者の先生への声の掛け方、奨学金制度の案内、大学生協利用の案内、救急救命講習の案内、学生情報更新の案内、実習前講座の案内、実習の手続きと注意、などなどが雪崩を起こすほど出てくる。 「聴診器と白衣の購入は、各自が生協に注文すればいいんですのん?」 「うん、生協に各自申し込みしてもらって。クラスで取りまとめの必要はないわ。外部奨学金制度の案内は三種類で、これも各自学務課に。学費の減免手続きも、この内容に当てはまる人は学務課。当てはまるかどうかわからなければ、直接学務課に問い合わせ。夏期交換留学生の募集は国際交流課、春のボランティア活動は学生生活課。シラバスと時間割表は……明日、何人かで取りに来るかな?」 お姉さんの視線の先には、新M2-5と書かれたダンボール箱が全部で三つあった。 「おーいえー……紙は重いのん……。明日の朝、台車をお借りして、下僕の四月一日(わたぬき)くんと二人で運びますのん」 「いいわよ、台車は廊下の突き当たりにあるやつ使って」 遥は確保した台車にシラバスと時間割表、書類一式を積み込んで、台車のハンドルに『M2-5 如月組』と書いた紙を貼り付け、学生証の束とサンプル用の書類一式だけ抱えて研究室へ戻った。 「ただいまなのーん」 学生証の束は内容をざっと確認して、明らかな間違いがないか、如月が持つクラス名簿と見比べる。普段は『渡辺』と書いていても、学生証には『渡邉』や『渡邊』と記載されるパターンもあってややこしいが、二年目はクラス全員の顔もわかり、間違いはチェックしやすい。  全て確認して如月のデスクの引き出しにしまい、入れ違いに煙草を取り出して火をつけ、ひらりと机の上に座った。 「今年も白衣を買うんですって! 聴診器は持ってないけど、白衣は入学のときから持ってるんだわ。そんなに大学の白衣を着なくちゃいけないのん?」 「それ、俺の白衣だからな」 「うっそーん! 一年間遥ちゃんの物だと思って使っちゃったのん」 「俺はまた支給される。使いやすいなら、使ってろ」 「じゃあ、そうするのん。よく見たら左のポッケに J.Kisaragiって刺繍が入ってるんだわー。白地に白い糸だから、気づかなかったのん」 「俺は自分の名前が嫌いだから、ネームは可能な限り布と同じ色の糸で入れる」 遥は咥えタバコのままロッカーを開け、如月のジャケットの内ポケットを見た。紺の裏地に紺色の糸でネームが刺繍してあった。  ふうむとロッカーのドアを閉めて、再びデスクの上に座り、怪獣の足型ラバーサンダルを揺らす。 「如月潤なんて、誰もが憧れそうな麗しいお名前だと思うんだわ。ご両親のネーミングセンスはいいと思うのん。どんな由来があるのん?」 如月は横目でチラリと遥を見て、遥の膝の間から引き出しを開け、煙草を口の端に引っ掛けた。遥がライターの火を差し出すと、目を伏せて火を吸いつける。  ゆっくり一口吸って、紫煙とともに言葉を吐いた。 「如月は二月生まれだから。潤は、潤いのある人生を願って」 「おーいえー、如月は二月生まれだからー! ……え? 如月っていう名字にまで由来があるのん?」 如月はゆっくり頷いた。

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