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第1話-出会い編-
「Joyeux anniversaire 、遥ちゃーん! ハッピーバースデートゥーミー! わー、十七歳の誕生日おめでとう、遥ちゃん! ありがとう遥ちゃん! さあ、願い事をしながらロウソクを吹き消して!」
マルタン・遥 ラファエルは、口の中で楽しく独り言を言いながら、スーツケースを両手で押し、背中に背負ったクラシックギターのハードケースを幅の狭い自動改札の壁面にぶつけながら通過した。
「そっか、日本は七夕かぁ! Vive le vent , Vive le vent , 鈴がぁ鳴るぅぅぅ。今日はぁ、たのっしい、……あれ? これはクリスマスの歌か。クリスマスと七夕って、似てなくなくない、なくなくなーい?」
遥は肩下まであるミルクティ色のゴージャスな巻き髪を、手首に嵌めていたシュシュでハーフアップに結い上げながら、コンコースに並ぶ七夕飾りを見渡した。
天井まで届きそうな大きな笹に、折り紙に細かく切れ目を入れた投網や、紙テープを五角形に折って辺をへこませた星、細長く切った折り紙をつないだ輪飾り、長く紙テープの束がのびる吹き流しなどが揺れている。
「思い出した! 笹の葉、さーらさらー、置き場に揺れるぅ、おー星様、キーラキラーン、金銀双子ぉー! ひゃっほー!」
遥は切符売り場の一番端に、短冊とペンが用意されているのを見つけ、スーツケースを押しながら駆け寄った。
「たんざくにおねがいごとをかいてかざってね、か。Oui , 願い事、書いちゃうぞー!」
サマーセーターの袖を右、左と順番にまくりあげて、ペンを持った。
『キャベツがみつかりますように♡ はるか』
「ひゅー、ちゃんと日本語書けるじゃーん! 満足、満足」
短冊一杯にハートマークを書き込んで、その短冊に音を立てたキスをしてから、笹に紙縒りを結び付けた。
背中からずり落ちてくるギターケースを背負い直し、両手を天井に向けて伸ばす。
「さーて、これからの遥ラファエルくんはっ?! 病院へ行く、建物を見る、じいじとばあばの家へ行くの三本でぇすっ! じゃんけんぽんっ! うふふ!」
エスカレーターにスーツケースを乗せたり降ろしたりしながら東口へ出て、遥はぴたりと足を止めた。
「うっそぉーん、まっじでぇぇぇ? ここ大咲 駅ちゃうちゃうちゃうちゃうー?」
振り返って見上げる駅の看板は大咲駅、その隣に添えるように東口とも書いてあった。
しかし目の前のバスロータリーは白いフェンスで囲まれて、横断歩道すら真新しいアスファルトで塗りつぶされており、知らない高層マンションが筍のように生えて、地元経済を支える製薬会社の本社ビルは同じロゴマークを掲げながら、全くスタイリッシュなオフィスビルへ変貌を遂げていた。
「『大咲駅 東口 再開発 計画 』、まっじかー。漢字を読めたオレ、素っ敵ーっ!」
遥は周辺を見回すと、赤いランプが灯る場所を見つけ、スーツケースを押しながらぴょんぴょんと跳ねて行く。
「KOBANのおまわりさーん、わんわんわわーん、にゃんにゃんにゃにゃーん! なーいてばかりいる、遥ちゃん! うっそーん、泣いてなーい」
交番の前には紺色の制服を着て、肩に無線機、腰に手錠を着けた警察官が、手を後ろに組んで立っていた。
「すみませーん、おまわりさーん! 大咲ふたば総合病院ってどこですかぁ!」
ミルクティ色の巻き毛と、透き通るような白い肌、薔薇色の頬、若草色の瞳を見た警察官は、小さく息を吸う。
「待って、待って、大丈夫! オレ、日本人! アイキャンノットスピークイングリーシュッ! 日本語ちゃんと話せるっちゃ! 大咲ふたば総合病院はどこでっしゃろかぁ?」
警察官は強い瞬きを数回繰り返してから再び呼吸を始め、交番の中から地図を持ち出す。
「大咲ふたば総合病院はね、そこの横断歩道を渡って右、今見えているあの花屋の角を左。坂を上る途中で看板が出てるから、そこを左に曲がって道なり。すぐに分かるよ」
「右、左、左! ……ミチナリって、誰? ショーグン?」
「え? 道のとおりに歩けばいいってことだよ」
「そっか。思い出した気がする! 右、左、左、ミチナリ! ありがとうございました」
敬礼してくれた警察官に、見様見真似で敬礼を返す。ドレンチェリーのように赤い唇を左右に引いて目を細め、光がはじけるような笑顔を向けると、警察官はまた息を止めた。
しかし遥はもう交番を振り返ることなく、スーツケースを押しながら横断歩道へ向かう。
再開発は真っ最中で、左側にはコンクリートミキサー車がいて、警備員が誘導灯を振っているし、右側は白い囲いがせり出していた。
目の前の国道を横断するための信号は赤で、遥はクラシックギターのハードケースを背負い直しながら、国道に並行する横断歩道の誘導音に合わせて歌を口ずさむ。
「通りゃんせ、通りゃんせ、こーこは、どーこの、細道じゃー? ペンギン様のお通りじゃー! ぺーぽーぺーぽーぺーぽー。……トロワ 、ドゥ 、アン 、青っ!」
信号が青色になるのと同時にスーツケースを押しだした。
「えっ」
右側から強い衝撃があった。
遥はスーツケースと一緒に空に向かって弾き飛ばされながら、結露したガラス窓、静かに噴き出す加湿器の湯気、クリスマスツリー、お月様の絵本、マスクを曇らせながら笑うパパの顔、フラスコの泡沫、白い部屋のベッドの上、折り紙、古城のプラモデル、穏やかに笑う白衣のお医者さん、幼い頃の記憶の断片を次々に見ていた。
『……たときは、ママンのほっぺにキスするんだよ』
パパの声を思い出したとき、遥は視界一杯に空を見た。その空に自分の汚れたコンバースが重なる。
「やっべ、このまま落ちたら、頭が割れる」
十七年の人生でただの一度も成功したことがない逆上がりの要領で、えいっと足を振り上げてみたら、奇跡的に足が下になった。
足を下に向けたまま、横断歩道のモノトーンへ降りて行って、着地と同時に大きく膝を曲げた。
「とうっ!」
バキグシャっ!
足元で枯れ枝を踏むような音が聴こえる。
「十点まんてーん!」
両手を左右に広げてゆっくり立ち上がろうとしたが、自分の意思に反して、両足に全く力が入らず、遥はそのまま後ろへ倒れた。
「わー、きれいな夕焼け。雲が光ってる……。」
低くなった夕陽を受けて、大きな夏の雲がドラマティックに輝く様子を見上げながら、背負っているギターケースの中で弦の切れた音が響くのを聞いていた。
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