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第1話
いつもなら残業もせずに帰って来るのに、今日に限って、部下のトラブルの後始末のせいで、アパートに辿り着いたのは日付が変わる直前だった。もう十年以上前に離婚して以来、侘しい一人暮らしをしている四十二歳の俺、中瀬泰寅 。疲れ果てている俺が重たい脚で古びた階段を上りきってみれば、玄関先の薄明りの下、黒い塊が置かれているのにビビった。
「な、なんだ」
目に飛び込んできた光景に、若干、逃げ腰になりながら、思わず声が漏れる。その声に反応したかのように、その黒い塊がピクッと動いた。
「うわっ」
黒い塊と思ってたのは、どうも一人の男が体育座りをしていたらしい。黒のショートコートに紺のパーカーのフードを頭から被っていたらしく、俺のほうを向いた顔の白さが、余計に強調される。
「泰寅おじさん?」
フードをはいで現れた顔には、どこか見覚えがあった。目を眇めながら、男の顔をよく見る。鼻先を赤くしながら、不安そうな目を大きくしながら俺を見返してくる。
「もしかして……翔太 か?」
「よかったぁぁぁぁっ!」
俺のことを『おじさん』なんて呼ぶのは、妹の容子 の息子か娘くらいしかいない。妹、と言っても、父親が再婚した相手の連れ子で、俺とは血のつながりなどない。俺が大学に進学して家を出たと同時に再婚したから、妹と言っても、あまり会話などもしたことがなかったし、妹、という実感もなかった。
そして、立ち上がって俺のほうに駆け寄ってきたのは、その血のつながらない妹の息子、平沼翔太。確か、大学二年になってたか。俺が覚えてるのは、まだ中学生くらいの可愛らしい少年だったのだが、今、目の前にいる男に『可愛い』という言葉ほど、似合わない言葉はない。
「泰寅おじさん、俺のメール、見てないの?」
あの頃は妹の肩くらいしか背がなくて、まるで女の子みたいだったのに、久しぶりに会った甥っ子は、俺よりも少しばかりデカくなって、チラリと見えた顔は、随分と今時なイケメンに成長していた。大きなたれ目に容子の片鱗が伺える。
そんな甥っ子は、上から見下ろすようにして、不満げに文句を言ってきた。
そんなことを言われても、俺はこいつにメールアドレスなんか教えた覚えはない。俺は不審に思いながら、スーツのポケットに入れていた携帯を取り出してみる。しかし。
「……メールなんか来てないぞ」
「えっ!?」
メールのフォルダーに入ってるのは、思い出したかのようにたまに連絡がくる親父か、仕事絡みのメールくらい。それ以外でくるものは、すべて迷惑メールに振り分けている。まさか、と思って迷惑メールのフォルダを開いてみると、なんだか怪しげなメールばかり。その中に、ようやく見つけた。
『泰寅おじさんへ』
「あ、これか。ていうか、なんで、俺のメアド知ってるんだ」
「母さんから聞いた」
「容子から?」
「うん」
俺とは疎遠な容子に、メアドなど教えた記憶はないのだが。不審に思いながら携帯を見ていると、翔太が強引に俺の腕を掴んだ。
「とりあえずさ、部屋に入れてよ。俺、夕方からずっと待ってて、すげー寒いんだけど」
そう言われて、ようやっとまともに翔太の顔を見た。確かに、こんなに冷えている中で待っていたせいか、顔が青ざめて見える。俺は小さく舌打ちをすると、自分の部屋のドアを開けた。
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