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第1話
薄く濃く 今日咲き合へる 桃の花
ゑひをすすむる 色にぞありける
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春はどこから春になるのだろう。
季節は三月に入り、梅の開花を追うように、今は桃が春の息吹を感じて膨らみつつある。父が大事にしていた庭は、父が亡くなった後も、季節ごとの花が咲き誇る。三月の声を聞くと庭には一斉に芽吹き、柔らかな緑と華やかな花の色で次々と彩られていく。
春が……その花色を深めていく。
梅から桜に渡るその一時を彩るのが桃の花だ。
優しくて可愛らしいその花の蕾が開くその夜が
……俺は少しだけ恐ろしい。そしてそれ以上に。
──毎年、身悶えするほど、待ち遠しい……。
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「……伊織? 寝てしもたんか……」
仕事の合間に、茶でも一緒に飲もうかと声を掛けたのに、その相手は窓を開け放って、縁側で居眠りの真っ最中だ。普段から着慣れている着物が、寝乱れているせいで胸元がわずかに肌蹴ている。太平楽にゴロンと寝転がっている姿は、一切周りを警戒してないようで、妙にあどけなく見えた。
こうしてみると、学生の頃の彼と全く変わらないように思える。
「……せやけど……さすがに伊織も年やわな……」
彼の黒くて長い髪に数本、白いものを見つけて小さく笑む。そっと指先で摘まんで、染めるように言ってやるか、と思案しながらも……。
「……けど……嫌がるか……」
髪を切る事すら面倒くさがる奴だ。染めるなんてこと了承するわけもない。そのまま全部が白くなるのを楽しむのもいいか。それはそれで、きっと似合うだろう。ふわりとその髪をそっと撫でてやると、少しだけ表情が緩む。
「……清香?」
「お前は相変わらず、『清香』、ばかりやねんな……」
男は傍にいる俺の代わりに、別の女の名前を呼ぶ。
俺は寝ぼけている男の髪に触れていた手を引き、唇に苦い笑いを浮かべた。文句を言う代わりに彼の周りに散らばっているスケッチを一枚一枚、拾って回る。どうやら今日は筆を落とすつもりはないらしい。スケッチに描かれた女性を見て、俺は小さくため息をつく。
そこに描かれているのは、奴が溺愛してやまない『愛妻』の姿だ。
「……まあ、商売的には『清香』さんが、一番売れるからええんやけど……」
今目の前で寝こけている男は、藍谷伊織という。俺の高校時代からの友人で、大学時代を美大生として共に過ごした仲間だ。
……まあ世間的にはそういうことになっている。
大学卒業と共に絵をやめた俺と違って、伊織は在学中から各賞を総なめにし、今や有数の日本画家だ。そして彼の絵で一番人気があるのが、さっきまでスケッチしていた彼の妻、『清香』をモチーフにしたものだ。そして藍谷伊織の描いた絵は、家業を継いだ俺が画商として取り扱っている。
「……なんや、カズヤか……」
ようやく午睡から目を覚まし、意識を取り戻したらしい男が寝転がったまま欠伸をする。ぼーっとした顔をしているが、しゃんとするとなかなか整った顔をしていることを俺は良く知っている。
「……俺の顔に、なんやついとる?」
その中年になっても人目を引く美麗な顔を俺のように向けて、伊織は眉をひそめた。
「いや……お前もえらい更けたなあって思ってな」
俺の顔を伊織は寝転がったままじっと見上げ、くすりと笑う。
「お前に言われとうないわ……そもそもカズヤの方が年が上や」
「数か月だけな。同い年やんか」
くだらない会話を交わしては、二人で小さく笑う。
「せや、今日は筆は落とさへんのやな」
俺の言葉に伊織は温かい日差しをその体に吸収するように、目を瞑って手を広げてそのまま大の字に体を広げた。
「せやな……今日はおひさんが温かくて、つい眠たくなってしもた……」
ふわりと、もう一つ欠伸をする。こいつは気ままな猫みたいなやつだ。気が向かなければ筆すら取らず、こうやって好きな物をスケッチして過ごす。食事も睡眠も気が向いたときにとって、絵に集中し始めれば、今度は飲まず食わずで描き続ける。
「……カズヤ」
柔らかった男の声が、ふと硬度を上げる。いやな予感がしてその顔を見ると、先ほどまでの穏やかな表情が一変している。
「……桃の花が膨らんできとる」
「……そうやな。もう三月やからな……」
「……カズヤ?」
「なんや?」
「……清香は……どこにおるん?」
その言葉に俺はぎゅっと唇を噛みしめる。
「清香さんは今入院してはるやんか。だからお前がこの家に今来ておるんやろ? 清香さんから俺、頼まれておるんや。伊織一人やと、飲み食いすら忘れるからと……」
畳みかけるように説明する俺の言葉に、伊織は寄せていた眉をすぅっと開く。呆けたような顔をして、こくりと一つ頷いた。
「……ほうか。せやった。清香が入院するから、俺はカズヤんとこに来とったんやった……」
納得してくれた伊織を見て、俺はほっと吐息をつき、笑顔を向ける。
「ってことで息抜きでもするかと思ってきたんやけど……」
俺の言葉を聞いてない伊織は、一人自分に言い聞かせるように緩やかに目を細める。
「せやったな。清香は病院に入院中や。なんや……ちょっとでも会われへんと寂しいもんやな……」
そう呟きながら、再び目を閉じた伊織は、夢の中で清香さんに会おうとしているのか、ゆっくりと呼吸が穏やかになっていく。ゆったりと動くその胸の上下を見て、俺は乱れそうになる呼吸をゆっくりと飲み込んで、一度瞳を閉じる。
「……もう少し寝るんか? やったらまた、伊織が目を覚ました頃に来るわ……」
まだ春先の庭は陽が陰れば一気に肌寒くなる。俺は部屋から薄がけを出し、そっと伊織の肩から腰にそれを掛けてやる。
「……伊織、夢の中で、清香さんに会えたらええな……」
俺の言葉に既に伊織はもう答えなかった。太平楽に眠る伊織の向こう。庭先で。蕾を膨らます花をみて俺は小さく吐息をつく。
……今年もまた、桃の花が散る季節がやってくる……。
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