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第2話
「湊、久しぶりやな……」
俺の顔を見た途端、俺を苗字で呼んだ男は、俺にむかって合図するように手を挙げた。
「長谷、お前も結構元気そうやな」
俺を見て少し皮肉気な笑みを浮かべるのは、俺同様、伊織に画家としてのプライドを叩き潰された男だ。とはいえ、元来絵を描くのが好きでたまらなかった奴は、絵を描くことは諦めず、今はイラストレイターとして一定の成功を収めている。俺の画廊に顔を出すのはかなり久しぶりだ。そもそも奴は今は海外に居を移しているから、余計会う機会は少ない。
「……藍谷は……相変わらずか」
ちらりと長谷が見上げた先には、伊織の『清香』さんが飾られている。それを見て俺は小さく笑みを浮かべた。
「……いいやろ。伊織の絵は……相変わらず」
俺の言葉に、長谷はあきれたような顔をした。
「まあ、お前はあの頃からベタ惚れだったしな。いつでも藍谷の絵と、藍谷ばっかり見てた。ホンマ……気色悪かったわ」
長谷の昔ながらの毒舌に、俺は眉をしかめる。
「……そういう誤解を生む発言はやめてくれへん? そうでなくてもこっちの業界では、妙な噂が立ちやすいんやし。まあ、伊織は寝ても覚めても『清香、清香』や。もうあそこまで来ると完全に愛妻家のレベルを超えて、変態の域やけどな」
伊織の「清香」さんへの溺愛ぶりは、日本画界でも有名だ。俺の口調に、長谷はうんざりしたように分かってるとばかりに頷く。
「だからといって、お前がそれに付き合うことはない。お前がさっさと結婚したら済む話やろ。まったく未婚の四十路男が、お気に入りの画家を自宅に抱えこんで、べったりと世話しているから、妙な噂が立つんや」
呆れたような長谷の言葉をするりと流す。そんな噂、別に伊織の絵が横で見れる特権に比べたらなんでもない。
「そう言わはるけど、伊織は相変わらず『清香』さんばかりで、残念ながら俺の入る隙はあらへんわ。まあ、伊織の絵は認める。絵だけは惚れてる。ホンマ……ええ絵や。そう思わへん?」
俺に描く道をあきらめさせた絵だ。あの頃と同じように、今もずっと……俺を魅了し続けている。そんな思いは言葉にせず、代わりにおどけた表情を顔に浮かべると、長谷はそれに合わせて笑ってくれた。
「湊の執着も、大概変態レベルやわ。変態同士で相性がええのかもな」
「その言い方気に入らへんな。俺は変態やないし」
そうか、と言って互いに一通り笑った後、長谷がふっと小さくため息をつく。
「そっか、あの人がいなくなってから……もう15年近く経つんか……」
「せやな。随分と……経つな。せやけど伊織は……あれから全然変わらへんわ。時が止まったみたいに全く……変わらへん……」
俺の言葉に、長谷はどこか苦く笑みを浮かべる。
「まあ……藍谷は一生、変わらへんやろな。そうやって……湊がそばにいて守っている限りずっとな……」
俺たちは出会ったころのとはちがう、ほろ苦い笑みを浮かべ、笑いあう。長谷の目じりに皺が寄るのを見て、あれから俺たちにも等しく時間が経ったのだと、過ぎた時間に思いをはせ、傍らの絵を見上げる。
俺を魅了したあの頃よりもっと、円熟味を増し、ますます俺を魅了し続ける伊織の『清香』さんがこちらをじっと見降ろしていた。
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「伊織……今日は筆を落しているんやな……」
自宅に戻り、離れを覗くと、伊織は墨で骨描きをしていた。いくつもデッサンを描いた中で自分の気に入ったものがあれば、それを紙に落とし込んでいく。それは俺も学生時代、何度もやった作業だ。一歩間違えれば、デッサンを映すだけになりがちな作業も、伊織の絵は新たに絵を描いているようにのびやかに筆が動く。
「…………」
俺の呼びかけにも返事はない。というか、多分俺が今帰ってきてアトリエを覗いていることすら気づいてないかもしれない。こうなると、多分骨描きが終わるまでは反応はないだろうし、乗ってしまえばその後の彩色になっても気づかないかもしれない。
俺は絵にのめり込む瞬間の伊織の姿を見るのが好きだ。長いまつげを伏せがちにして、紙にひたすら筆をおき、描き続けている。南側の庭からは、柔らかな春の日光が差しこんでいた。
陽光の中で、昨日の絵を元にして描いているのだろうかと、ふと伊織の手元を覗き込むと、その背景に描かれている可憐な花を見つけて俺は言葉を失う。
「……桃の……花……」
それは梅とも、桜とも違う形状を持つ花びらを持つ花だ。桜に先んじて可憐に咲く季節の花。そしてあの時に咲いていた……花。
──あの人の……花だ。
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あの日、病室にその花びらが紛れ込んで、愛らしい桃色が彼女を彩るみたいにそっと髪に落ちた。
それを伊織が大事そうに指先でとらえる。起きた悲劇に気付かないように、伊織がそっと瞳を細めた。
『清香、これは桃の花やで。お前が好きな……ほんま愛らしくて綺麗で、お前みたいや。なあ、清香。鉛筆とスケッチブックはどこや? 今の清香を俺は描かなあかん……』
伊織が大事そうに頬を撫でて、そう尋ねる清香さんは、その瞬間、世界で一番愛情を捧げていた夫に、柔らかく笑みをこぼしたように見えた。
……いや、単に、桃の花びらがそう俺に思わせたのかもしれない。もう彼女は微笑むことができるわけじゃないのだから……。
そして伊織は目を閉じたままの清香さんのスケッチを取り始めたのだった。
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ふいに訪れた過去の追想が脳裏を捕え、そこから身を震わせて逃れる。ふと不安になって伊織の顔を見つめると、かすかに目が赤い。泣いていたわけ……ではないだろうが……。
「伊織……大丈夫か?」
「……清香……」
つぶやく言葉は多分無意識でこぼれている。
「……清香はどこや?」
絵筆を引きながら、それでも呟く言葉は愛おしい妻を呼ぶもので。そのこと俺の胸は、ズキンと張り裂けそうなほどの痛みを感じる。
もう20年近く感じ続けている痛みを、そっと笑顔で押し隠して、俺は唇に笑みを浮かべた。
「清香さんは今、入院中やんか。また落ち着いたら戻ってくる。それまでは俺がお前の世話をするって清香さんに言ったからな。気に食わなくても俺の世話でとりあえずは満足してくれ」
俺の言葉に、伊織はくっと子供のように唇を一瞬噛みしめ、次の瞬間、はぁとため息をつく。
「何やつまらん。清香が早く戻って来れたらええのに……清香を見ながら……清香の絵を描きたいだけなんやけど……」
宙に浮かんでは、消えていく切なげな声にギリギリと切り刻まれるように胸が苦しくなる。伊織が感じることの出来ない痛みを代わりにわが身に引き受けて、貴女はどうしてここまでこの男を魅了しながらも、今ここにいないのだと、そう彼女に尋ねたくもなる。
もし清香さんが元気で伊織の元にいたら……俺は全く違う人生を送っていたかもしれない。
──その人生がどのくらい、自分に正直な人生だったかはわからないが、普通に結婚して妻に子供を産ませ、画商の仕事に励み、伊織の絵を扱わせてもらって商売をする。父がしてくれたように息子に取り扱っている絵を見せて、その真価を問うてみたりもしたかもしれない。
たまには伊織と会って、きっとお前は妻の愚痴はいわないだろうから、惚気話だけを聞いて、俺はどこかに切なさ交じりの幸福感を感じ、そして伊織と握手をし、次に会う日を約束して別れる……。
(どうもこの時期は俺も意識が淀みがちだ)
気を取り直して、目の前の男に意識を戻す。俺の話を聞いて、一旦は納得したらしい伊織は、そのまま絵筆を取り続けている。そしてこの男は、絵を描き続けているうちに、気が付けば唇には笑みが浮かび、瞳は柔らかな曲線を描く。こいつが猫なら、きっとそろそろゴロゴロと喉を鳴らす。そんな伊織を見て、俺は何とも例えようのない気持ちを持て余す。
(桃の花が咲き始めた……)
絵を描くことで小康状態を保っている伊織が、一番不安定になる季節だ。彼の元から宝物を奪った季節に、伊織は徐々に壊れ始める。当初は愛妻を失ったことを理解していた伊織だが、今はその事すら理解できなくなってしまった。年々とその思い込みは激しくなり、今はひたすら入院している妻の帰りを待ちわびている。
なぜ人はこんなに誰かを愛することができるのだろうか? 亡くしてから十五年以上もずっと……清香さんは伊織の心を奪ったままだ。そして俺はそんな伊織を見守る事しかできない。いや……もう一つだけ俺の出来る仕事がある。
──それは、この桃の花の咲く季節を、『伊織と共に、二人きりで』過ごしてやること、だ。
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