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第3話

 そしてその日は、唐突に訪れる。 「清香? どこにおるんや」  満ちた月に誘われるように、先ほどまで病院にいると言って納得していたはずの伊織が、いるはずのない人を探し始める。桃の花が庭には今を盛りと咲き誇り、その一つ目の花びらが夜風に舞う。消えそうなほど細い月が、星を一つ従えて、静かにそれを見つめている。 「きよか~。清香。どこや?」  こうなるともう、彼は俺の言葉すら聞こえなくなる。ただひたすら自分の家ではない俺の実家の離れで、長い髪を結ぶことすらせずに、ふらふらと月明かりの中で裸足で歩き回る。それはいっそ伊織が幽霊になったかのような姿で。  人払いをして俺以外、誰もいなくなった俺の生家で、伊織はひたすら清香さんを探して彷徨う。 「清香。絵を描きたいんや。隠れてへんで出て来たらええよ」  優しくて甘い声。愛しい妻とまるでかくれんぼをしているかのように、囁く声を聞きながら、俺は寝室の布団の上に正座している。 「……清香、ここに居ったんか……」  そして暗い部屋で、座り込んでいる俺を見つけて、ふわりと優しい笑みを浮かべる。俺は室内で清香さんの着物を肩に羽織り、彼が来るのを待っていた。彼の背に、細い……細い月が見える。月明かりは仄かで今にも雲に消されそうだ。 「清香……絵を描こうか……」  伊織は清香さんと似ても似つかない俺を抱いて、『清香』と愛おし気に呼ぶ。そして熱っぽい瞳で俺を見つめながら、彼の脳に見えているはずの光景をスケッチブックに写し取る。 「……清香はほんまに可愛ええなあ。清香は綺麗や……」  こんな表情の伊織を、俺は真正面から見たことがない。その視線がひたすら清香さんに向いているのをずっと今まで隣で見続けていたけれど……。  伊織に、大事な宝物を見るように見つめられていた清香さんは、どれだけ幸せだったことだろう。例え短い生涯しか用意されてなかったとしても。  もし、俺が彼女と運命を交換すると言われたら、即座に頷いてしまうほど……真正面から受け止めるその瞳はまっすぐで真摯で、あどけない子供の様で、その癖たまらないほどの色香を秘めていて。  脳の奥まで犯されるほど凝視されて、その指が俺を写し取っていくのを、ただうっとりとして俺は見つめ返している。いや俺を通して伊織は、清香さんを見ているだとは分かっている。それでもその視線を独り占めに出来るこの瞬間は……たまらなく幸せで、飢え続けた俺の体は、声すら出すことができずに、抗うことなく彼の妄想に寄り添い続ける。  手の早い伊織は一枚描くと、また新しい紙を出す。  ただ室内には鉛筆をスケッチブックに走らせる音だけが聞こえる。微かな灯りを頼りに、伊織は長い睫毛の影をゆらゆらと頬に落とし、ただひたすら俺を見つめ続ける。 (意識が……溶けていきそうだ……)  絵描きの視線は、俺のずっと隠していた内心すら見通して、俺の虚構のすべてを剥ぎ取り、素の姿に戻していく。  ──ああそうだ。俺は……ずっとこうしていたい。  愛おし気な様子で、姿を描きとる伊織のことをずっと見つめていたい。いつからか、桃の花の季節には、一年分の飢えを補うように俺はこの時を待ちわびるようになってしまった。  長谷に言われても仕方ない。  俺は伊織に狂っている。あの十八の夏から。ずっと……。  清香さん、悪いけど、俺の方が先に伊織を見つけたんだ。  そして、貴女のいなくなった後もずっと見つめ続けている。  だから、貴女に伊織のすべては上げられない。  この日だけの真実の叫びを心の中に秘めて、俺はその視線に溺れて、春の夜の夢に揺蕩う。  気づけば伊織の周りには何枚ものスケッチされた清香さんの絵が広がるようになる。そしてその場を埋め尽くすほど清香さんを描くと、伊織はゆらりと立ち上がるのだ。 「……清香。お前を描いておったらたまらんようになってまうわ……」  そっと背中越しに俺の肩を抱いて、伊織は囁きかける。甘く、切ない吐息を俺の耳元で零し、そのままそっと俺をその場に横たえる。 「……ぁっ」  その場に這わされた俺は、毎年そうしているように下着もつけていない。そのまま女ものの着物の裾をまくられると、裸の臀部に、既に固くなっている伊織のモノを擦りつけられる。 「あっ……あかん。すぐ……ってまう。せやけど、後からたっぷり可愛がってあげるさかい……」  俺の尻にそれを擦りつけると、あっという間に伊織は達してしまう。その潤んだモノを俺に塗り付けると、今度はゆっくりと愛撫するように俺の菊座に指を挿しいれた。 「ぁっ……ふぁっ……」  待ちわびていた感触に思わず声が溢れる。けれど俺が不用意に声を漏らしたら、清香さんでないことが伊織にばれてしまうだろう。咄嗟に着物を唇で噛みしめ、声を殺して俺は一年ぶりの伊織を受け入れた。 「んんっ……んっ」  固い楔を打ち付けられると、堪えても、全身を駆け巡る悦びに声が上がってしまう。 「……ほんま……お前は変わらへん……。愛おしくて気が狂いそうや……」  中空を過ぎ、沈みかけた微かな月の光の下で、伊織は愛おしそうに俺の髪を撫で、肌蹴た着物の襟元を広げ、背中にキスを落とす。 (気が狂いそうなのは……俺の方だ)  腹に回した伊織の手を上から抑え込むようにして、ぎゅっと握りしめる。  愛おしくて、愛おしくて、愛おしくて。  切なくて、可哀想で。  ……ずっと憧れてて。 『俺は、お前だけをずっと好きだ』    叫びたい気持ちを痛いほど着物を噛みしめて耐え続ける。  一生、声に出せなくてもいい。  伊織が誰を思って俺を抱いていても構わない……。  誰にも分ってもらえなくても……今、俺は幸せなのだから。  そして桃の花びらが零れ落ちる中、月が沈むまで伊織は俺を抱いて、何度も果てて、そしてゆっくりと意識を落とす。  俺はそれを確認すると、零れ続けていた涙を拭い、くすんと小さく笑う。 「……伊織? 寝てしまったんか?」  俺の言葉に伊織はくうくうと幸せそうに寝息を零した。  一年の中でこの季節に、夢の中で清香さんを抱いて、伊織は一年だけまた生き延びる。  ……いや、俺が生き延びさせているのだ、俺の……エゴで。 「しようのない奴やな……」  抱きかかえて、シーツを変えて綺麗にした布団の上に伊織を横たわらせる。 「……おやすみ、伊織。また明日な……」  そっと秀でた額にキスを落とす。黒い髪がすべて白い髪になっても、きっと俺はこの男を愛し続けるのだろう。  小さな笑みを浮かべ、ゆっくりと布団から膝をついて立ち上がろうとしたその瞬間。  くい、と伊織の手が俺の袖を引く。 「うん? 伊織、起きてんのか?」  尋ねる俺に帰ってくるのは、熟睡している男の寝息で。寝ぼけているのかと、ふっと笑って俺はその場を立ち上がった。  ──瞬間。 「……カズヤ、お前だけはもう、俺の元からいなくならんといてや……」  伊織のどこか愛おし気な囁きが一つ、桃の花びらと共に宙に浮かび、刹那、俺の心の中に溶けて消えていった。  【 完 】

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