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第1話
「ここ、いいか――?」
「――? 何……?」
「キスしたい――」
ベルガモットの香りのする吐息が耳元をくすぐる、今しがたまでいた店で飲んでいた紅茶の香りだ。
どしゃ降りの雨がフロントガラスを叩きつける車の中で、ヤツはそう言った。
この男を初めて見たのは行きつけのゲイバーだ。
三月 程前からたまに見掛けるようになったこいつは、一見からして酷く印象的な男だった。
濡羽色 のストレートの髪を無造作にバックにホールドし、額に掛かる前髪から覗く視線は黒曜石の切れ長で、先ずはそれからして酷く艶かしいような色気を放っている。
加えて墨色の渋いスーツは遠目からでもそれと分かる繻子の質感、そんな高級感あふれる出で立ちに嫌味なくらいマッチしている落ち着いた仕草は紳士的で、とてつもなく近寄り難い雰囲気を纏っていた。
誰もが彼を遠巻きに見つめ、だが、おいそれとは声ひとつ掛けられない。
そんなふうだから羨望の視線を向けられながらも、この男はいつも独りっきりでカウンターに腰掛けている――という印象が強い。
誰としゃべるわけでもなく、ただおとなしく雑誌等に目を通しては、気に入りの酒を静かにたしなむだけだ。
ごくたまにマスターと話をしながら垣間見せる笑顔に、いったい何人の男が釘付けにさせられたことだろう、そんな想像をしながらかくいう俺自身もそいつらと一緒になって遠巻きにこの男を見つめるだけだったのには理由があった。
自慢するわけじゃないが、俺は自分の容姿には自信がある。と、こう言えば既に自慢そのもの、嫌な野郎だと思われもするだろうが、実際このバーでも相手に不自由したことがない。
面構えは北欧風の人形みたいだとよく言われ、その甘いマスクに釣られて声を掛けてみたんだけど、などと近寄ってくる連中がゴロゴロといるのは確かだ。
加えて俺は滅法愛想良しときている。
人見知りという経験は殆どしたことが無い上に、誰とでもすぐに打ち解けられる気軽な話術は我ながらの長所、これだけは胸を張って堂々自慢に値する代物だ。
そんな俺が何故この男とだけは距離を置いていたのかといえば、単にヤツとは相容れない壁がはっきりと立ちはだかっているのを承知だったからだ。
俺はタチだ。男を抱いたことは数あれど抱かれたことは未だ無い。
ヤツもそうなのだろうということは一見にして暗黙了解だった。
それが理由だ。
だが感情というやつはそうそう思うようにはならないのが実のところで、俺は正直この男のことが気になって仕方なかった。
ヤツを見掛けるようになってからは、バーへ出向く回数が増えたのも認めざるを得ない事実だ。
左程広くもない店の中にヤツの姿を探すのが日課となり、せっかく声を掛けてきてくれた相手とも今までのようには楽しく会話も弾まないことが多くなった。
そのかわりにヤツの姿を見つければ、それだけで至極満足した気分にさせられて、挙句はヤツが今日も独りっきりでカウンターに腰掛けているのを確認したりするものならば、ホッと胸を撫で下ろすと同時に何だか微笑ましい気分にまでさせられたりもして、そんな自分がちょっとばかり情けないと思えるわけだから始末が悪かった。
いつか声を掛けてみたい。
いや、声を掛けるくらいならすぐにでも可能だろうが、その後の発展を想像すると、今ひとつ行動に踏み切れないというのも正直なところだった。
どしゃ降りの雨の夜、こんな日にまでわざわざバーに出向くだなんて俺も相当ヤキが回ったかな、と少々気後れしながらくぐった店の扉。
今日は定休日じゃないかというくらいに客足の無いこの店のカウンターにヤツはいた。
いつものように独りっきりで――
それを見た瞬間に俺は酷く安堵したような、或いはワクワクしたような心持ちになって、まるで外の天気とは裏腹な爽快感が全身を包んでいくような気がしていた。
「やあ、珍しいね。こんな日にまた一人、来客があるなんて」
馴染みのマスターがやわらかな笑顔で迎え入れてくれる。
今日はもう閉店しようかと思っていたのだけれど、『せっかくだから二人でゆっくり飲んだら?』などとお膳立てめいた流れにも、心底ラッキーだと心拍数が加速するのをとめられない。
まさかこんな形でずっと気になっていたコイツと近付きになれるだなどとは思ってもいなかったから、素直に幸運だと思えた。
そう、いかにも自然なこんな形で――
◇ ◇ ◇
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