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第3話
「ここ、いいか――?」
「――? 何……?」
「キスしたい――」
あっという間の顔面ドアップに驚く暇もなく、ヤツの唇が俺の耳元でそう囁く。
「俺みてえなのは、好みじゃない?」
「え……!? あの、えっと……」
(や、その好みじゃねえ……とか急に、ンなこと言われても……)
実はすごい好みでした、なんて返せるわけがない。
本来ならば冗談まじりに妖しい駆け引きを楽しむくらいの余裕があるはずの俺が、ただただ硬直してたじろいでいるだけだなんて、これじゃ初恋も朧なガキじゃねえか。
『俺みてえなのは好みじゃない?』
囁くようなローボイスに得体の知れない何かがうずき出す。瞬時に背筋を這い上がったゾワリとした感覚が信じられなくて、俺は思わずギュッと拳を握り締めた。
「あんた、名前は?」
立て続けに耳元をくすぐる質問、ヤツに似合いの低い声が艶かしくてどうにかなりそうだ。
「は……? えっと、ああ、ヒョウ。『ふぶき ひょう』っていう」
「ヒョウ? 動物の――あの豹か?」
珍しい名だというように、漆黒の大きな瞳を見開いてそう訊いてくる。
まあ、確かに――な。名乗ると大概の人間はそっちの『豹』を連想する。中には『名前からして獰猛だね』なんて、熱い交わりを期待してくる奴もいた程だ。
だが、違う。残念だが俺の名にそんなに激しい由来はない。それどころか――、
「天気の冰 だ。冰が降る……とかの」
説明した後のリアクションは、ほぼ百パーセント決まっているんだ。どうせまた、僅かに首を傾げながら、言われていることの意味を理解してくれるまでに多少の時間を食うのだろう。いつものことながらこの一瞬が何とも苦笑いを誘われる面倒な瞬間だった。
ところが――だ。
「――――ッ!?」
ふっと空気が動き、今、確かに首筋に触れた。
ヤツの唇がかすったような感覚に、俺は思わず裏返った声を上げそうになって、酷く慌てさせられてしまった。
名前の説明に特に驚くでもなければ、不思議そうにするわけでもなく、こんな反応をされたのは初めてだ。
「ちょと……ッ、何……急に……!」
平静を装う余裕もなく、声もうわずって心拍数も跳ね上がる。
こんなのは不本意だ。とんでもなく予想外だ。
言っちゃ何だがこんな経験はかつて無い。
今、こいつがしていることは、いつもはそこそこ好みな可愛いボウズを相手に俺が余裕でかましているような悪戯な恋の駆け引きそのものだ。
そうされてドキマギしているだろう相手を見ているのは一種の醍醐味、ひと時限りのゲームを散々楽しんできたことが思い出されては、何とも後ろめたい気分にさせられる。
如何にお互い了解の遊びだとはいえ、俺って案外残酷なことしてきたのかなぁ――
そんなことが走馬灯のようにグルグルと脳裏を巡っては、雨に滲んだ街の光と相まって目眩がしそうになる。
ヤツの仕掛ける甘い誘惑の手中に、俺はまんまと嵌められようとしているのか、はたまたすっかり都合よく巧みな言葉に乗せられて遊ばれようとしているのか、そう思うと何故だろう、悲しいような寂しいような傷付いた気持ちにさせられて、そんな自分も信じ難かった。
「ダブルブリザード――か。随分とまた冷てえ名前だな? 俺は――焔 」
「え――?」
「”ほむら”と書いて焔 だ」
――焔 だと?
「混血なんだ。親父が中国人でお袋が日本人」
ああ、なんだ、そういうことか。キョトンとしてしまった俺を見て、ヤツの瞳が可笑しそうに弧を描く。
もしかしたらコイツも俺と似たような経験をしてきたんだろうか――ふと、そんな想像が脳裏を過ぎった。名乗る度に必ずと言っていいほど不思議な顔をされ、由来を説明するのがかったるい。何だか親近感が湧いちまいそうだ。
しばしそんな温かい気持ちに浸り掛けていたのも束の間、
「じゃあ俺たちは傍に居ると形を変えるってわけだな」
突如、『え――?』というようなことを囁かれて、我に返った。
「形を……変える?」
「冰 は焔 で溶かされて水 になるだろ? 焔は冰を溶かす内に燃え尽きて気体になる――とかな」
「え……、は……?」
「溶かされた水もやがては気化する。俺たちは同じものになるってわけだ」
おいおいおい、どこの哲学者だよ……。
そもそもどういう意味で言っているのか、わけが分からない。俺は口をポカンと開いたまま、ヤツを凝視してしまった。きっとひどく間抜けな顔をしていたことだろう。
そんな俺をヤツは面白おかしそうに見つめていた。
その笑顔がとてつもなくやわらかくて、しかも妙に色っぽくて、見つめられるだけで心臓を射貫かれそうだ。
整い過ぎた顔立ち、好むと好まざるにかかわらず見惚れてしまうような完璧な美丈夫の妖艶な笑み――ダメだ、堕とされる――瞬時に本能がそう告げる。
格好付けることも粋がることも儘ならず、どういった思考回路からか、ヤツの逞しい腕の中で抱っこされている仔豹の姿が思い浮かんでしまったほどだ。
いや待て、それは俺じゃない――! そうだ、俺はそんな可愛らしいイメージじゃないはずだ。そう、俺はもっと、もっと……こう――
そんなことで頭がグルグルしているのを他所に、ハッと我に返ればヤツの掌が俺の頬に添えられていて――
クイと顎先を掴むように指先が撫でた感覚に、全身を電流で貫かれるような衝撃が走った。
ビー、ビー、ビーーーッ!
突然のけたたましいクラクションの音で俺はハッと我に返った。
ああそうだ、赤信号だったんだっけ。
キョトンとなっている様がおかしく思えたのか、
「無粋な連中だな」
そう言ってヤツは悪戯そうに笑うと、何事も無かったかのように俺から離れてハンドルを手に取った。
◇ ◇ ◇
あれからヤツは特には何も口にせずに、前を見て運転に集中している。
ただでさえ視界が悪いこんなどしゃ降りの夜だ。それで当然だろう。
当たり前のように車を走らせてヤツが向かっているのはヤツ自身の部屋――
このままヤツの部屋へ行って俺たちはどうするのだろう。
この男の出で立ちやこの車からしても、何となく住んでいる部屋の雰囲気までもが想像できるようだ。
きっと仄暗いライトに彩られたリビングで酒を交わし、スマートな会話を楽しみ、街の灯りを見下ろして――その先は――?
想像を巡らせる程に胸が速くなるのを抑えられない。
雨に滲んだ路面を走るタイヤの音をも掻き消すような自らの心臓音が、信じ難いを通り越して驚愕なくらいだ。
俺は何でこんなにドキドキしているんだろう。
俺は何を期待している……?
まさかさっき脳裏に浮かんだ妄想のように、逞しそうなこの腕に抱き包まれることを期待しているとでもいうのだろうか。否、そんなワケはないと懸命に否定すれども、止やまない心臓音は正直だった。
つい今しがたのキスの予兆を思い出せば、ゾワリと浮かび上がる感覚がすぐにも背筋を這いずり揺らす。
もっともっと濃厚に――舌と舌とを絡め合い、肌と肌とを重ね合って溺れてみたい。とてつもなく淫らに、激しく、乱されたい、堕とされたい、侵されたい――。
どっちがどうだとか――そんなこと、もうどうでもいい。
タチだとか、抱くとか抱かれるとか、そんなことはどうでもいい。ただただ欲しい、それだけだった。
「そろそろ着くぜ」
低く色香を伴った声で再び我に返る。ふと覗き見たヤツの瞳も、僅かに余裕を失ったかのように艶めかしく思えるのは、都合のいい妄想だろうか。漆黒の瞳の中に点る焔ほむらが揺れているように感じられた。
一夜限りの火遊びかも知れない。それでも構わない。
この男の『焔』によって、本当に溶かされて気化して消えてしまう情事だとしても――構わない。後々、寂しくて虚しくてめちゃくちゃに傷付くことになろうと抗えない――。
今はただ、欲しかった。
欲しくて欲しくてたまらない。抑えられない。
十二月の雨の夜。
この日がヤツと俺にとって忘れられない記念日になるということを、この時の俺はまだ知らずにいた。
◇ ◇ ◇
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