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第8話「彼の取扱説明書」

割れたお皿や汚れた床を掃除しながら「いくら口論になったとしても、食事ぶちまけるまでするかよ普通」と腑に落ちない気分だった。 ナオキと付き合って4ヵ月。 これまでのことを振り返ってみる。 今回のようなキレ方ははじめてだが、彼の行動や思考について、気になる節はいくつかある。 スマホを忘れて一日中連絡が取れなかった日、ビンタをされた。 しかも2連発。 大人になって男からビンタをくらったのは、かなりの衝撃だった。 それだけ心配してくれたのだろうと、その時は理解したので深くは考えなかったが、後に思い返すとそこで思わず手が出てしまうという所に少し違和感があった。 それ以来、今のところビンタはない。 ただ、他にもいくつか気になることがある。 まだ同棲を始める前、居酒屋で飲んでいる時こことだ。 注文したポテトサラダが2人前運ばれてきた。 店員さんの「ポテトサラダ、2人前お待たせいたしました」に対して「2人前?」と不思議そうに聞き返す彼。 ナオキは注文の時、確かに「ポテトサラダ2つ」と言っていた。なんなら店員さんも「1皿に2人前お盛りしてよろしいでしょうか?」と確認までしてくれた。 その前に焼き鳥を2人前ずつ頼んでいた流れで口から出てしまったのだろう。 「2人前って言ってたよ」と俺が指摘をしたので、おっかしいなと言わんばかりに腑に落ちない様子で一応納得する。 そこで終わっておけばよかったのに、その後続けた俺の何気ないひと言がナオキのカンに触れてしまったらしい。 「ナオキってさ、そういうとこあるよね」 嫌味のつもりは全くなく、笑いながら愛嬌込めて発したつもりのその言葉がどうやら気に入らなかったようだ。 この時彼は急に真顔になり、しばらくの沈黙。 俺も悪いことを言ってしまった自覚がなかったし、なんとなく「ごめん」と謝るのも場を重くしてしまう感じがして、かける言葉が見つからなかった。 ナオキは黙ってトイレに行き、15分くらいして帰ってきた頃にはいつも通りになっていた。 ナオキの中には俺にはわからないプライドみたいなものがあるようだ。 他にもこんなことがあった。 それは映画館のチケット売り場で並んでいる時だった。 ナオキは仕事の時以外はあまり大きなバッグやリュックを持ち歩かない。 ジーンズの前ポケットにスマホ、後ろポケットに長財布、シャツの胸ポケットにタバコ、くらいの軽装だ。 この日の彼のジーンズは、前ポケット(スマホじゃない側)に、直径5センチほどの平らな円形の膨らみがあった。 最初、持ち運び便利なサイズのヘアワックスかなぁとも思ったが、なんとなく「そのポッケ、何が入ってるの?」と訊ねたことがある。 返ってきた返事はまさかの「答えたくない」だった。 「え、気になるじゃん」 「言いたくないってば」 「言えないようなものってなに」 「別に変なものじゃない」 「隠されるとなんか不審に感じるじゃん」 こんなやり取りの後、やはりナオキは急にキレて「答えたくないことだってあんだろ!」と怒って帰ってしまったことがある。 こうなったナオキは、もう追いかけて声をかけようが、ヒジを引っ張っぱろうが、何をしても足を止めてはくれない。 問い詰めた俺も悪いかもしれないが、そうまでして答えたくないナオキの気持ちもわからなかった。 諦めた俺は遠ざかるナオキの後ろ姿を最後まで見届けずにひとりで映画館に戻った。 ふたりで観るはずだった映画を観終えて劇場を出ると、そこにナオキはいた。 「映画、どうだった?」 その前に言うことがあるんじゃないのかとも思ったが、こうやっていつも通りの彼に戻って話しかけてくれるようになったことが『仲直りの証』だと思い、俺も普通に答える。 「微妙。一緒に観て討論したかった」 「じゃあ次の回観てくるから待ってて」 「やだよ、お腹すいたからご飯いこ」 「わかったよ」 この日はご飯を食べながら、あれほど拒んでいた“前ポケットの円形の膨らみ”の正体を黙ってテーブルに差し出し見せてくれた。 それはクリームだかパウダーだかわからないが、男性用の皮脂を抑える化粧品類だった。 なぜこれが「答えたくない」だったのかはよく分からなかったが、ナオキ的にはプライドに関わる言いたくないものだったのだろう。 怒らせてしまった時、ナオキは決まって俺から一旦遠ざかる。 そんな時は追いかけても謝っても口を聞いてはくれず、ひとりになりたいようだった。 その時間は数分の時もあれば数時間の時もある。 放っておけば少し時間をあけていつも通りのナオキに戻ってくれるのだ。 どんな男にも、女にも、取り扱いの注意事項がある。自分ではわからないが、俺にだってきっとある。 俺が元カレたちの気になるところを気にしなくしてきたように、彼らも俺と付き合う際には何かしら飲み込んできたこともあるのだろうと思う。 俺はいつも、恋人の取扱説明書を頭の中でいつの間にか作っている。 ナオキの取扱説明書も、いつの間にか作成された。 そしてその説明書の中には「熱が上がった際は放置すること」と注意事項が記載されているのだ。 恋人だけでなく、同僚でも友達でも家族でも、みんなそれぞれ性格も感覚も違う。 それを受け入れられなければ「嫌いな人」なんだし、「好きな人」なら受け入れようとする。 場合によっては受け入れるしかないことだってある。 それが人付き合いだと思っている。 今回は自分たちの家だったこともあり、まわりの目を気にする必要がないので、食事やお皿に当たってしまったのだろう。 ナオキが散らかしたものたちの片付けを終えるとテーブルに戻り、せっかく彼が作ってくれたオムライスを再び食べ始めた。 スープも冷めてしまったけれど、美味しい。 食べ終えると食器を洗い、テレビをつけてソファに腰掛けた。 彼が出ていってから30分くらいだろうか。 玄関のドアが開く音が聞こえる。 カサカサとコンビニ袋の音も聞こえる。 リビングのドアが開いた。 申し訳なさそうに、でもどこか穏やかな表情のナオキが顔を見せる。 「おかえり」 「ただいま。アイス買ってきた。食べる?」 「うん、食べる」 ご飯の途中で出ていってしまった彼は、お腹空いていないのだろうか? でもそれを聞くのは今のタイミングじゃない。なんとなく。 ナオキは俺の横に座ると、コンビニ袋ごとアイスを俺に渡し、隣からぎゅっと抱きしめてきた。 「さっきはごめん」 「ううん。俺もごめん」 「片付けてくれたんだね」 「うん」 「ありがと」 「アイス溶けちゃう。食べていい?」 「うん」 今回のケンカの原因は、俺が元カレの話をしてしまったこと。そして彼らとまだ連絡が繋がってること。このことは、今夜はもうぶり返したくない。 ナオキからもその話が出てこないように祈りながらアイスを食べた。 そして、彼の取扱説明書に「元カレの話は禁句」と書き足した。 つづく

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