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第4話 後日談 熟年秘書は可愛い恋人
机の上を片付け終わり、さて社を出ようという段になって、秘書の間部がキョロキョロし始めた。
本郷大樹はそれに気づいて、思わず噴き出しそうになる。それをぐっと堪えたために、不機嫌そうな仏頂面になった。
間部は視界の端に大樹の不機嫌な顔を見つけ、ますます焦った様子で辺りを見回している。きっと、せっかちな大樹が待たされることに苛立っているとでも思っているのだろう。
勤続二十八年になる熟練秘書の間部征爾は、端正な佇まいの男だ。
すっきりとした長身は、若い頃から長距離走を続けていたせいで、五十代になった今も無駄肉を寄せ付けない。手足がすらりと長く、やや骨張った手は指と爪の形が抜群に良い。体型に合わせた上物のスーツは地味な色味を選ぶことが多いが、それがまた足の長さや肌の白さを引き立たせて、何とも言えない品があった。
若い頃は思わず注視してしまいそうなほどの男前だったが、それは今もあまり衰えを見せない。少し窶れた感じの頬のラインが、いっそ若い頃よりセクシーなくらいだ。
ややつり上がった切れ長の目と高い鼻梁、それに薄めの唇が、全体の雰囲気を冷淡そうに見せて、おいそれとは声をかけられないような近寄りがたい雰囲気を醸し出している。
ところが、これが笑うと打って変わって人懐こい印象になり、そのギャップが堪らない魅力なのだ。
スケジュール管理は万全、取引先への根回しも完璧、無理だと思えるアポイントも熟練の人脈と知恵を駆使して難なく取り付けてくる。
完全無欠の隙なし秘書だ。……表向きは。
「間部、帰るぞ」
せっかく片付けた引き出しの中まで覗く間部に、ついに大樹は笑いを堪えきれなくなった。顔を上げた間部が何か言いかけるより早く、大樹は自らの頭の上を指さして教えてやる。間部が『アッ!』という顔をした後、ばつの悪そうな表情で頭上に乗せていた眼鏡を下ろした。近頃使い始めた老眼鏡だ。
もうこんな物を使う年齢になったのだなと、大樹は感慨深く思い返す。
大樹が初めて間部に会ったのは一五歳の時、間部が当時は珍しかった男性秘書となったばかりのことだった。
「社長をお迎えに上がりました。秘書課の間部と申します」
大樹の登校時間と父親の出社時間は大抵重なる。
玄関を出た大樹は、ちょうどインターフォンを押そうとしていた背の高い青年と目が合った。こんな朝早くからなんだという疑問が顔に出たのか、青年は深々と頭を下げ、大人にするのと同じように丁寧に名乗った。
秘書と言えば、小綺麗な若い女の仕事だと思っていた大樹は、間違えても女には見えない青年をまじまじと見つめた。
昨日まで迎えに来ていた女性秘書とは随分雰囲気が違う。人を寄せ付けないような白く冷たい顔、威圧的なほど硬い仕草。後から思えば、これが間部の秘書デビューの日だったのだから、緊張していたのだろうが、第一印象はすこぶる悪かった。
生意気盛りの中学生だった大樹は、この澄まし顔の男前秘書をからかってやることにした。
「今度の愛人は男かよ。親父もまったく見境なしだな」
大樹の言葉に青年が大きく目を見開いた。茶色がかった淡い色の虹彩が綺麗だと、大樹は思った。
見惚れて言葉を失った大樹の脳天に、直後、遠慮のない拳骨が落ちてきた。
「こら、大樹! お前がそんなんだから、秘書を変えたんだぞ!」
鞄を抱えて後ろから出てきたのは当の父親だった。
「……いってぇ!」
頭を押さえて呻く大樹の姿に、青年が思わずといった様子で笑った。屈託のない、子供のような顔で。
冷たく酷薄そうに見えた顔が、笑った途端驚くほど人懐こい印象に変わり――――この瞬間、大樹の運命の相手は決まってしまったのだ。
初めて出会った日、すでに間部は妻帯者だった。
想いは一生黙っておくしかないと覚悟していた大樹の元に、だが、予想もしない形で運命は転がってきた。突然の病で妻を亡くした間部が、隙だらけの姿で大樹の前に落ちてきたのだ。
為し崩しに関係を始めてもう数年が経つ。大樹の方は恋人同士のつもりでいるのだが、間部はどうやらこれは秘書としての務めの一環だと、自分自身に言い聞かせているらしい。
隙がなさそうに見えて、どこかぽっかりと抜け落ちたところも、間部の可愛いところだ。
「……コンタクトにしたらどうだ。何処に行ったか探さなくて済むし」
駐車場を並んで歩きながら、老眼鏡を嵌めた秘書に、大樹はさりげなく言ってみた。
綺麗に年齢を重ねた間部の顔がよく見えないのが少し惜しいからだ。
フレームレスのシャープな眼鏡は老眼鏡には見えないし、怜悧な顔立ちの間部にはいかにも有能秘書という雰囲気でとても似合っている。けれど、あの綺麗な虹彩がレンズ越しにしか見えないのは勿体ない。それにキスしたいと思った時に、いちいち眼鏡を取り上げる一手間が面倒だ。コンタクトなら、今までと同じようにいつでも隙を見てキスできる。
「いえ……その……」
大機の提案に、間部が難しい顔をした。
眉間に皺を寄せて考え込む顔は、宇宙の大命題にでも思いを馳せているかのように、ひどく考え深い。その表情も、禁欲的な色気を帯びて、大樹の少々精力が過ぎる雄を刺激した。
「目に異物を入れるのが、どうしても嫌なので……」
やがて重々しく発された間部の言葉に、大樹は一瞬ポカンとなった。そういえば若く見えるが、間部はそれなりの年齢だった。老眼用のコンタクトがちゃんとあるのかも大樹は知らない。
――――それにしても、体の奥に異物を入れられるのはあんなに好きなのに、目は駄目なのか。
思わず浮かびあがってきた考えに、大樹は笑いを漏らした。
嫌がる間部を押さえつけ『いいじゃないか、優しくしてやるから我慢しろ。初めての時は誰だって痛いもんだ』とか言いながら、コンタクトを目に入れてやるのだ。間部がそのうち『もっと入れて下さい、もっと大きいコンタクトを』なんて言い出したらどうしてやったものか。それは特注してでも入れてやらなくてはなるまい。
急に股間が熱を持って、大樹は予定を変更した。たまには何もせずに帰してやるつもりだったが、間部が可愛いのが悪いのだから付き合ってもらおう。
「間部、残業しに行くぞ」
「えっ?」
突然腰に手を回した大樹に、間部が素っ頓狂な声を出した。昨日も『残業』させたから、本当に予想外だったのだろう。
断る口実を探そうとしている秘書の気配に、大樹は言い訳を考えさせまいと、眼鏡を頭の上にはね上げて唇を奪った。
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