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第1話

 その日、商社で営業マンを務める彼――吉村(よしむら)慎吾(しんご)は猛烈な息苦しさと体の疼きに襲われた。営業担当区域内で外回りをしていた時の事だった。  乗っていた営業車を道路脇に停車し、大きく舌打ちしながら助手席に置かれたカバンの中からピルケースを取り出すとドアを開けた。  街の中心部を流れる大きな川に沿って整備された道路沿いで、幸い車の通りも少なく人通りもなかった。  周囲を見回して、そこが自分が幼い頃から遊び慣れた場所だと気付く。 (確かこの辺に……)  ふらつきながらではあったが記憶を辿り、大きな松の木が茂る場所を見つけると、土手に作られた石の階段を駆け上がった。  小高い土手の上にあったのは寂れた公園だった。  慎吾の記憶では赤い滑り台とシーソー、そして数脚のベンチがあったはずのその場所には、今にも崩れ落ちそうなベンチが一つだけ残っていた。  それだけが、ここが公園であったことを物語る唯一のものだった。  無情な時間の流れにため息をつきながら、そのベンチに座れることを確認してそっと腰を下ろした。  ピルケースから錠剤を二つ掌に載せ、それを口に放り込むと奥歯でカリッと音を立てて噛んだ。  一瞬の苦みに顔を顰めるが、徐々に治まってくる体の様子にほうっと長い息を吐いた。 「――間に合った」  額にびっしりと掻いた汗を拭いながら、遠くに見える川から吹き上げる風に目を細めた。 男女という性別の他に、もっと細分化された性別の存在が明らかになったのは今から五十年ほど前の事だったと聞く。 獣の血を引き、あらゆる能力に優れた稀少種α、周期的に発情期を迎え、男女問わず子を成すことが出来るΩ、そして世界人口のほどんどを占めるβ。 当時は有能で世界を牽引する存在であったα、下層種族と蔑まれてきたΩという身分差別も頻繁に見られていたようだったが、近年ではそういった偏見は少なくなり、同性婚も認められるようになった。 しかし、今でも家柄や家系に拘る一部の者たちは偏見を持っているらしい。 慎吾は生まれながらのΩだ。発情期を迎え始めたのは思春期に当たる高校生の頃だった。 最初は戸惑い、不安ばかりの自分の性を呪ったこともあったが、今では次々とその症状を緩和する抑制剤が開発され、レイプなどによる不慮の妊娠を防ぐための避妊薬もその効果を上げている。 Ωは発情期に発する自分のフェロモンによって“運命の番”を引き寄せると聞いていたが、慎吾は二年前までそれは単なる迷信だと思っていた。 そう――会社の上司であり、恋人である細野(ほその)雅己(まさき)に出会うまでは。 現在三十四歳、営業部の係長である彼は狼の血を引く名家の出身で、一流大学を卒業後に有名商社に勤務したものの体質に合わず、今の会社に落ち着いたらしい。 長身で端正な顔立ち。緩く後ろに流したこげ茶色の髪は年を重ねるごとに男の色気を増していく。 彼は有能なαだ。それなのに、目を血走らせての昇格争いにも興味がなく、驕ることも人を見下すこともしない。男女からも人気で、彼の番になりたいという者の誘いは後を絶たなかったが、そのすべてを断り続けていた。 だからこの年齢になってもまだ独身で、上昇志向のない係長でいる。周囲からしてみれば、密かに“変わり者”と噂されている理由も分からなくない。 慎吾は、雅己に同行していた出張先で予定外の発情期を迎えてしまった時、互いが“運命の番”であることを知った。 通常であれば、体を繋げ、αがΩに対して首筋に噛み痕を残すことで婚姻が交わされる。運命的に出会った者同士であれば、そうなるまでに時間はかからない。 しかし、雅己と慎吾は少し違っていた。暴走する想いと体を押し留めるかのように、彼は慎吾の体を労わり続けている。それでも体を繋げていないわけではない。 発情期になった慎吾は自らの欲望を満たすために雅己を欲する。それに応える彼は決まって、コンドームの着用を心掛けていた。 αは自分の血を残すために、Ωは子を成すために生きる種族だ。それなのに彼はあえて、慎吾に自分の精を注ぐことを拒んでいる。いや――嫌でそうしているわけではないし、生殖能力がないということはまず考えられない。それでも彼の中で慎吾には言えない何かしらの理由があるように思えた。 それを問いただしたのは昨夜。二年もの間、慎吾との婚姻を先延ばしにしている理由が知りたかった。 でも、雅己は黙って首を横に振り「すまない」と謝るばかりだった。 「埒が明かない!」と一方的に見切りをつけて部屋を飛び出し、今日は会社で顔を合わせても一言も口をきいていない。  こういう時に限って、精神バランスの崩れから周期が乱れ、発情期が訪れる。 「何なんだよ……。俺の何が不満だっていうんだ?」  慎吾は、避妊薬の入ったピルケースをギュッと握りしめて苛立ちを隠すことなく呟いた。  完全な発情期になれば、抑制剤は一時的な効果しか得られない。  薬が切れれば、また体が疼き出し、雅己を求めて止まなくなる。その香りは彼がどこにいても分かるほど強力で、抗うことなど出来ないはずなのに……。  二十六歳で見た目だってそう悪くはない。心身共に全くの健康体である慎吾としては、彼の子を身籠れないことに納得がいかないのは事実だった。  二人の関係は至極良好で雅己は慎吾を溺愛している。慎吾もまた、彼なしでは生きられないと思うほど彼を愛していた。  それなのに――。 「――おっと、先客?しかも発情期のΩ……」  不意に耳に届いた低い声にハッと息を呑んだ慎吾は、勢いよく声のした方を振り返った。  そこには、ここが公園だったことさえも分からないほど寂れた場所には到底不似合いな、真っ白いスーツを着た長身の男が立っていた。  年は三十代半ばだろうか。日常であまりお目にかかることのない、まるで結婚式場から抜け出した新郎のようなそのいで立ちに慎吾は目を見開いた。 「何だよ……。そんなに驚く事ないだろ?」  彼は胸元から煙草の箱を取り出すと、慣れた手つきで一本引き出して唇に挟んだ。  ゆっくりと煙をくゆらせてから吐き出した彼はすっと目を細めて慎吾を見つめた。  緩く後ろに流したごげ茶色の髪に、端正ではあるがスッキリとした顔立ち、奥二重が縁取る瞳は澄み切った空のように青い。  流暢な日本語といい、顔の造りといい、どう見ても自身と同じ日本人にしか見えない。 驚いた理由はもう一つある。初対面である彼に既視感を覚えたのは、恋人である雅己に似ていたからだ。 「あのさ、そこ。俺の場所なんだけど……」 「は?」 「ベンチ……。そこは俺の縄張り」 「え?あ……。すみませんっ」  呆気にとられながらも慌てて立ち上った慎吾は、煙草をふかしている彼に場所を譲った。  しかし、彼は片手をヒラヒラと揺らして「別にいいよ」と投げやりに言った。 「いいって……?」  慎吾はどちらの指示に従えばいいのか分からず、困惑したまま立ちつくしていると、彼は苦笑いを浮かべた。 「――体調、悪いんだろ?座ってろよ……。薬だって早々効くもんじゃない。それにお前、その甘い匂いをプンプンさせて帰る気か?その辺の奴らに襲われるのが関の山だぞ」 「甘い……匂い?」  慎吾は自身のスーツの腕を鼻に近づけてみたが、甘い匂いなど全く感じられなかった。  かろうじて、車で使用している芳香剤の匂いが微かにする程度だ。 「だーっ。そんなので分かるわけないだろ。発情寸前のお前の匂いはαにしか分からない」 「じゃあ、あなたはα……」  慎吾の中で警笛が鳴る。もしも、ここで雅己以外のαに種付けされて妊娠してしまったら、二人の関係は絶望的なものになる。その上、首筋を噛まれでもされたら――慎吾は無意識に後退った。 「――そうだ。だがな、安心しろ。俺はお前をどうこうするつもりはない」 「そんなの……。信じられるわけがないっ」  彼は煙草を指先で摘まんで眉を顰めると、わずかに首を傾けた。 「信じる信じないはお前次第だけど、俺はお前の事知ってるから」 「え……?」 「恋人――細野雅己の事で悩んでる。互いに運命の相手だと分かっているのに、なぜ婚姻を結ばず、子を成すことを拒むのか……。自身に何か問題でもあるんじゃないか――って、そんなところか?」 「え、ちょ……っ。ちょっと、なぜそんなことが分かるんですか?」  一度は落ちつけた腰を浮かして、慎吾は彼の方に詰め寄った。  慎吾の勢いに圧されるように仰け反った彼は、腰に手を当てて「やれやれ」と呟いた。 「俺、天使だから……」 「は?はぁぁぁ?」 「だから言っただろ?信じる信じないはお前次第だって」 「またぁ。冗談はやめてくださいよ。――って、まさかストーカー?」  疑う事ばかりの慎吾に、彼は面倒くさそうに背中を向けた。  不思議に思う慎吾の目に映ったのは、彼の肩甲骨のあたりに浮かぶ小さな二つの白い翼だった。  それをピクピクと動かしながら肩越しに振り返った彼は、煙草を咥えたままニヤリと笑って見せた。 「――嘘、だろ。オッサン天使とか……」 「オッサン言うな。お前の彼氏だってオッサンだろうがっ」  機嫌を損ねたのか、彼は指でつまんだ煙草をポイっと宙に放り投げた。  それが白い羽となってゆっくりと目の前に落ちてくるのを、慎吾は口を開けたまま見入っていた。 「天使をバカにするとロクな目に遭わないぞ。ここで逢ったのも何かの縁だ。それに……俺の姿が見える人間なんてそういないからな」  再び胸元から取り出した煙草の箱を指先でポンポンと叩きながら、彼は唇の端を片方だけ上げた。  間髪入れずに煙草を吸うところを見ると、相当なヘビースモーカーのようだ。禁煙が叫ばれているこのご時世、天使までもがその害を受けていると思うと何とも複雑な気持ちになってくる。 「煙草、お好きなんですか?」 「あぁ……。いろいろストレス溜まるんだわ。人を助けるのも楽じゃない。望んで天使になったわけじゃない。気が付いたらこの仕事してた」 「はぁ。人助け……ですか?」 「そう。あ、名前言ってなかったな。俺はダイキ」 「慎吾……。吉村慎吾です」 「知ってるよ。この目で見た相手の事はすべて分かるっていう能力持ってるから。でもまあ――ぶっちゃけると、それは永遠じゃないってこと。そろそろ俺も転生しなきゃいけない時期に来てるらしくてさ。天使もいろいろ面倒でノルマ達成しないと転生出来ないんだよ。――で、お前で仕事納め。天使、最後のお仕事ってわけ」  どこかの営業マンのような事をいう天使――ダイキのお気楽な口調に呆れながらも、天国でも業績によって転生する時期が決まっている事に驚いた。  その最後の仕事に自身を選んでくれたという事に、超がつくリアリストであるはずの慎吾は奇跡を信じてもいいかなと思えた。 「願いを叶えてくれる……とか?」 「まぁ、そんなもんだな。でも、俺が出来るのはあくまで“助ける”ことだ」  自信ありげな顔で煙を吐き出すダイキの横顔は、やはり恋人である雅己に似ている。  しかし、何かが違う。その違いを見つけようと慎吾はまじまじと彼を見つめた。 「――で、お前には幸せになってもらわなきゃいけない。だから、恋人である細野雅己との間に子を成してもらう」 「ちょっと待ってください!それが出来てたら今頃悩んでない!彼は……俺との婚姻を拒んでいる」 「拒むわけないだろ?あいつはお前の運命の相手だ。運命っていうのはな、天使である俺でも狂わせることは出来ないんだよ。まあ、ごくごく稀ではあるが自分の意志でそうさせる奴も中にはいる」 「意志で?」 「そう……。運命を変えたいっていうのは基本的には無理。でも、貶めることなら負の力が作用して稀に変わることがある。だが、絶対に幸せにはならない。その時点でそいつは何の自覚もなく悪魔に魂を売ってるからな。運命ってのは酷い目に遭っても必ず上向くように出来てる。それをひっくり返そうとするから、悪魔に魅入られる。――だから、お前はお前の運命を受け入れろ」 「でもっ!」 「でも……じゃない。何の為に俺がいると思ってるんだよ。――安心しろ。この発情期にお前たちは結ばれる。そして子を成す。半分しかなかったモノが一つになり、それが力を与える。いいか?彼への不信感は捨てろ。素直になれ。そして求めろ……」  煙草を咥えたままダイキはそう言った。  川から吹き上げた風に煙が煽られ、長くたなびいていく。  白いスーツの上着の襟元をキュッと正し、ダイキは自信ありげに微笑んだ。その口元がやけに色っぽくて、慎吾はごくりと唾を呑み込んだ。 「俺を信じろ……」  その表情は雅己に酷似しており、彼にそう言われているように錯覚する。  そう言えば声もどこか似ている。ただ彼は、こんなチャラい喋り方はしない。  いつでも穏やかで、そして争い事を嫌う心優しい男だ。 「オッサン天使……」 「オッサン言うなって言ってるだろ!ったく……アイツはコイツのどこに惚れてるんだ?」 「え?何か言いました?」 「何でもないよっ!今、言った事忘れるなよ。じゃあなっ」  煙を吐き出しながら背を向けた彼は、その景色の中に自然に溶け込んでいくように姿を消した。 「あっ!ちょ、ちょっと!」  手を伸ばしてみたが、そこにはもう彼の姿はなかった。  ただ漠然と幸せにさせるだの、雅己との婚姻を結ばせるだのと言われても、いまひとつピンと来ない。  そうするために慎吾が何かを講じなければならないこともあるはずだ。  しかし、それを指示するわけでもなく姿を消したダイキに、慎吾は茫然とするしか出来なかった。 (夢だったのか?)  頬を指でつねり、その痛みに顔を顰める。  発情期を前に、精神状態がおかしくなって見てしまった幻覚とは違うようだ。  慎吾は上着のポケットの上からピルケースをそっと押さえ込む。  微かにカラリと錠剤が転がる音に深いため息をついた。 「何なんだよ……あの人」  その時、慎吾は知らずのうちに心の中にわだかまっていた雅己への不安や不信感が消えている事にまだ気づいてはいなかった。

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