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第10話 電話

 創さんが出て行って、部屋には僕の小さくしゃくり上げる声と、姉ちゃんの深い寝息だけが、やけに大きく響いていた。 「姉ちゃん」  揺すってみるけど、起きる気配はない。薬で眠らせたって言ったな。きっと凄く強い睡眠薬なんだろう。  諦めて、僕より大きい姉ちゃんの身体を苦労してずらして、ジャケットを脱がせてハンガーにかけ、ウエストを緩めて布団をかけた。  ふと気付いて、玄関に走っていって、チェーンをかけた。これでもう、創さんも誰も、入ってこられない。 「……慶二」  とてつもなく、慶二に会いたくなった。でも時計を見ると、午前零時。連絡を取るには、躊躇われる時間だった。 「慶二」  また、ポロポロと涙が溢れ出した。恐い。慶二の声が、聞きたい。  バッグから慶二の名刺を出すと、裏返して手書きの携帯番号をプッシュする。  十コールくらい待って、諦めて携帯を耳から外した。 『歩』  もしもし、とは言わずに、直接名前が呼ばれるのが、細く聞こえた。落ち着いたバリトンに、涙が止まらなくなる。 「慶二……っく、遅くに、ごめっ……」 『歩? どうした、何を泣いてる』  ただ、声が聞きたかったなんて言ったら、怒られるかな。  創さんの事は、言わない方が良いのかな。  その二つが、喉の奥で渋滞する。 『歩、何でも話せ。寂しいのなら、今すぐ行くから』 「駄目……忙しい、んでしょ。来なくて良っから……声だけ聞かせて」 『俺も、歩の声が聞きたい。何で泣いてるのか、話してくれ。どんな事でも聞くから』  ああ、創さんと慶二が似てるのなんて、雰囲気だけだ。慶二は、創さんとは違う。 「慶二……創さんってお兄さん、居る?」 『兄さんが、どうした? 何かされたのか!?』 「ホテルで……襲われそうになった」  携帯の向こうで大声が爆発して、僕はちょっと携帯を耳から遠ざけた。 『あの野郎……!!』  基本は上品な慶二から、罵りの言葉が飛び出して驚く。 「待って、慶二。兄弟喧嘩させたい訳じゃないんだ」 『無事か、歩!?』 「う、うん。慶二とはまだキスもしてないって言ったら、出て行った」  よっぽど息を吐いたのだろう。電話口に、ザザ、と雑音が入った。 『良かった……今、何処に居る。安全か?』 「うん。部屋にチェーンかけたから、誰も入ってこられないし、姉ちゃんと一緒」  姉ちゃんは眠ってるけど、心配をかけたくなくてついでに言う。 『すまない、歩。俺と兄さんは、仲が悪い。だけどまさか兄さんが、お前に手を出すとは思わなかった。完全に俺のミスだ。明日迎えに行くから、一緒に住もう』 「えっ?」  僕は耳を疑って、思わず訊き返す。聞き違いじゃなく、確かに慶二は言った。 『仕事は辞めろ。一緒に住めば、もう恐い思いをする事はない』 「でも……」 『今の職場では、安全が確保されない。仕事がしたいなら、小鳥遊は多岐に渡って企業展開してるから、やりたい職業を選べ』  仕事を辞めて慶二に頼り切りになるのは気が引けたけど、それなら、良いかもしれない。  押しの強さだけじゃなく、もうこんな恐い思いをしたくなくて、頷いた。 「うん」 『落ち着いたか?』 「あ……」  気付くと、涙は止まってた。慶二の声が、僕を安心させてくれたんだ。 「うん。ごめんね、遅くに」 『何かあったら、いつでもかけろ。就寝中でも、仕事の電話で起こされるのは慣れてるし、俺は毎日寝てる時間がまちまちだ』 「うん。ありがと」  言ってから、ふと慶二の言葉が気になった。 「あの……」 『ん?』  電話で、火照った顔が見えないのが幸いだと思った。 「何かあった時だけじゃなく、何にもなくても、かけちゃ駄目?」  慶二が笑った。優しい笑い皺が、脳裏に浮かぶ。 『ふふ。随分と甘い事を言うな。勿論、何もなくてもかけてこい。明日からは、一緒に住むけどな』  創さんが言った言葉がチラと頭を掠めたけど、そんなの嘘だと思った。慶二が、金に任せた遊び人だったなんて。  もし仮にそうだとしても、これからは僕だけを好きになってくれるんだ。だから、何にも心配ない。  慶二と話してると、女の子が恋愛対象だという意志とは裏腹に、愛しさがこみ上げる。僕はありのままを口にした。 「慶二……好き」 『ああ。俺も好きだ、歩』  生まれて初めて好きと好きが重なる喜びに、押さえようとしても口角が上がってしまう。  これが、幸せっていう気持ちなのかな。 「おやすみ、慶二」 『ああ。明日迎えに行くから、ホテルの名前を教えてくれ』 「えっ」  もう一つ、創さんの言葉が蘇った。 『慶二は、女が本当に駄目なんだ。君に女装癖があるなんて知ったら、契約を破棄するかもしれないぞ?』  どうしよう。僕、ワンピースだ。 「だ、大丈夫。家まで姉ちゃんに送って貰うから、アパートに来て。八時半に」 『本当に大丈夫か?』 「うん。姉ちゃん、僕より大きいし気が強いんだ。姉ちゃんと一緒なら大丈夫」 『そうか。じゃあ、八時半に迎えに行く。そのまま勤め先に行って、簡単に事情を話して辞表を出そう』 「うん。わかった」 『おやすみ、歩』 「おやすみ、慶二」  慶二が切るまで待とうと思ったけど、通話が切れる気配はない。僕は気恥ずかしくなって、こちらから終話ボタンをスライドした。

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