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第9話 助けて!
雰囲気の良い夜景の見える高そうなバーで、僕は姉ちゃんとナンパ男の会話を聞きながら、ウーロン茶をすすっていた。
ノンアルコールカクテルなんていう洒落たものもあったけど、そんな見栄を張るのも面倒なくらい、僕はこの時間に乗り気でなかった。
創 と名乗ったナンパ男は、姉ちゃんと隣通しで、にこやかに話してる。
僕は間に姉ちゃんを挟んで、殆ど口をきかずに、文字通りお茶を濁していた。
上品な光沢のある黒のオーダースーツを着こなしたナンパ男は、オールバックが似合う、大御所俳優みたいな佇まいだった。
「創さん、お仕事は何をなさってるんですか?」
「零細企業ですが、一応役員をやっています」
「まあ……」
姉ちゃんが目を輝かせる。駄目だ。これは長引くぞ。
「そんな方が、何であたしたちを?」
ナンパ男は、皮肉っぽく笑った。年上の頼れる男が好きな姉ちゃんには、渡りに船ってやつかな。
「役員というのは、出会いが少ないものでしてね。部下や取引先のお嬢さんに手をつけるのは、私の主義ではないので。信じて貰えないかもしれませんが、ナンパなんてしたの、初めてなんですよ。それほど、貴方が魅力的だったんです」
「まあ、お上手。でも、そう言って頂けると嬉しいです」
姉ちゃんが本気で照れてる。こんなに慣れた風なのに、ナンパした事がないなんて、信じてるのかな。
僕は退屈で、小さく欠伸を噛み殺した。
「おや、妹さんは眠くなってしまったのかな」
僕なんか眼中にないと思ってたから、慌てて口元を両手で覆った。
「あ、す、すみません」
「構わないですよ。帰りがけに声をかけたんだから、仕方のないことです。ツインの部屋を取りますから、お二人で泊まっていってください」
約束だった『一杯』は、もう三人とも呑み干していた。約束は守るんだな。僕は少しだけナンパ男を見直した。
「良いんですか?」
高級ホテルにお泊まりだ。断る気の全くない姉ちゃんが、形ばかり遠慮する。
「ええ。私の我が儘をきいて頂いたんですから。これは、私の連絡先です」
名刺が二枚、スッとジャケットの内ポケットから出てきた所は、誰かを彷彿とさせる。
プライベート用の名刺のようで、『創』という名前と、携帯番号が書いてあるだけだった。
こんな名刺を持ってる時点で、ナンパした事がないとか嘘だろ!
でも姉ちゃんは受け取って、ニッコリと微笑んだ。
「ご連絡しても良いですか?」
「ええ。是非」
* * *
そして僕と姉ちゃんは、カードキーを渡されてナンパ男と別れた。
「わーいっ」
姉ちゃんが、ふかふかのベッドの上ではしゃぐ。
あしなが基金からお金を借りて成人し、まだそのお金を返している最中の僕らは、「贅沢は敵だ」が合い言葉だった。
ホテルなんかビジネスホテルとかカプセルホテルしか泊まった事がなく、広い部屋に全て一流の調度品が揃うのを見て、興奮しないと言ったら嘘になる。
「うふふ、あたしも玉の輿かな」
「姉ちゃん、騙されないで。あの人絶対、遊び慣れてるよ」
「それでも良いわ。結婚出来るとは思わないけど、少しお付き合いするくらい……ふぁーあ……」
言葉の途中で、姉ちゃんは大きな欠伸をした。パタリと、ベッドに横になる。
「姉ちゃん、お化粧落とさないと、肌が荒れるよ」
「ん~……何か、急に眠くなってきちゃった……歩ちゃん、先にお風呂入って良いよ。あたし、ちょっと寝る……」
すぐに寝息が上がり始める。姉ちゃん、僕と違ってザルなのに、珍しいな。創さんと話して気を遣ったからかな。
バスルームには、女性がお泊まりするのに必要なアメニティグッズが、何から何まで揃ってた。
ブラシで髪を梳いて、クレンジングで丁寧に化粧を落とす。
服を脱いでバスタブに入り、手早く髪と身体を洗った。
ふかふかのバスローブに身を包み、パジャマを小脇にバスルームを出る。姉ちゃんがお風呂に入ってる間に着替えよう。
「姉ちゃん?」
部屋の灯りは消されていた。ベッドの頭のランプだけが、ぼんやりと一つ点いている。
「姉ちゃん、出たよー。お化粧だけでも落としなよ」
ベッドにパジャマを置きながら、隣に声をかける。
「姉ちゃ……」
!? 一瞬、何が起こったのか分からなかった。
ベッドに引き倒され、大柄な影がのしかかってくる。
でもすぐに、親戚のおじさんに押し倒された恐怖がフラッシュバックして、大声を上げた。
「姉ちゃん! 姉ちゃん助けて!!」
だけど姉ちゃんの寝息は、これだけの大声にも揺るがずに、静かに規則的に上がっていた。
「お姉さんには、薬で眠って貰っている。壁も厚いから、声を上げても無駄だ」
この声……!
「ナンパ男!」
「創と呼んでくれないか? どうせ逃げられないんだ、お互い楽しもうじゃないか」
「僕は男だ!」
「知っている」
バスローブのベルトが解かれて、パンツ一枚の裸体が、さっきの上品さからは想像も出来ない好色そうな視線に晒された。
男だと明かしてもやまない暴挙に絶望的な気分になったけど、結婚指輪を通したネックレスがシャラリと首筋を滑って、一筋の希望を見出した。
「僕は、小鳥遊財閥の妻だぞ! 変な事したら、すぐにあんたの会社なんか潰してやるんだから!」
だけど予想に反して、ナンパ男はくつくつと喉の奥で笑った。
「それも知っている。契約結婚にホイホイ乗るような、尻軽だろう。駄賃は弾むから、大人しく足を開け」
大きな掌が、スルリと胸板を撫でた。全身が総毛立つ。
「慶二は、女が本当に駄目なんだ。君に女装癖があるなんて知ったら、契約を破棄するかもしれないぞ?」
「えっ」
何、この人。慶二の事を知ってる。何、誰、恐い!
顎を摘ままれて、顔が近付いてきた。唇が触れる。
――ガリッ。
僕は思いっきり、唇を噛んだ。
「っ!」
痛みに顔が歪んで、離れていく。血の味がして、手の甲で苦々しげに唇を拭うのが薄闇の中に見えた。
「僕は尻軽じゃない! 慶二とはまだキスもしてない! 慶二っ……助けて、慶二っ……!!」
届かないと知りつつ、僕は恐怖の余り慶二を呼んで、泣き出した。大粒の涙が、目尻からこめかみに伝って枕を濡らす。
「ふっ、く……慶二……慶二……」
「……本当か?」
泣き声がしばらく響いて、やがて酷く動揺した声で囁かれた。
「え?」
「まだキスもしていないというのは、本当か?」
「ホントだよ……っく」
「驚いたな。あの手の早い慶二が、こんな可愛い獲物に、キスもしていないとは」
今度は僕が動揺する番だった。
「手が早い……?」
「ああ。決まった相手を作らない代わり、金を握らせてはやりたい放題だった」
「嘘!」
思わず言葉尻に噛み付く。
「嘘じゃない。あいつは、誰かを愛した事なんてないんだ」
慶二をあいつ、と呼んだ事に疑問がわいた。
「あんた、誰。慶二の知り合い?」
「ああ……いずれバレる事だ。隠す必要もないな」
ヘッドボードに手を伸ばし、部屋の灯りが点いた。
何で気付かなかったんだろう。言われてみれば、雰囲気がそっくりだった。
「小鳥遊創 。慶二の兄だ」
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