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第8話 ナンパ

 次の日、会社に行くと、下にも置かない扱いをされた。いつもは新入社員の僕が淹れてるのに、サッとコーヒーが出てくる。 「いやあ、今朝また、追加の注文があってね。佐々木くん、いや、佐々木『係長』、これからもよろしく頼むよ」 「は、はぁ」  え? 僕が……係長?  両親が死んでから、良い事なんか一つもなかったような気がする人生を、慶二が変えてくれた。  でも、慶二に頼りきりにはなりたくない。  そんな風にも思って、おずおずと切り出した。 「あ、あの……昇進のお話は、なかった事にして頂けませんか」  部長は、目一杯驚いて、一瞬言葉が出ないようだった。 「……え、佐々木くん、係長では不服かね。じゃあ、上に取り合って……」 「いえ。小鳥遊にコネがあるのは、たまたまですから。そんなので一人だけ昇進って、おかしいと思うんです」 「そ、そうか。いや、立派な(こころざし)だよ、佐々木くん。だけど、特別手当は弾んだから、是非受け取ってくれたまえ」 「はい。ありがとうございます」     *    *    *  その夜、僕は姉ちゃんと外食の約束をしていた。婚活パーティが上手くいったかどうか、報告する会だった。   「歩ちゃん!」  待ち合わせの新宿南口のお花屋さんの前で、姉ちゃんが手を振ってる。  その時、ざあっと風が吹いた。僕はめくれそうになる小花柄のワンピースの裾を押さえて、内股に足を閉じた。  姉ちゃんが駆け寄ってくる。 「あれ? 歩ちゃん、髪どうしたの?」 「あ……美容院に行ったんだ」 「へぇ! 珍しい。美容院でお喋りするの、苦手でしょ。いつも千円カットでぱっつんじゃない」 「お喋りが苦手だって言ったら、黙って切ってくれたんだ」  姉ちゃんは、大きな目を好奇心にくりくりさせて、僕の顔を覗き込む。   「リップの色も変えた? いつもより明るい感じ」 「うん」  特別手当を貰った僕は、取り敢えず新しいリップを買ったのだった。  姉ちゃん、相変わらず、細かいことに気が付くな。 「そっちの方が似合うわよ。若い内しか、そんな色着けられないんだから! さ、行きましょ」  そう言って、いつものように腕を組んでくる。  背は姉ちゃんの方が大きいから、僕は引っ張られるような形になる。  新宿のアパレルショップで働く姉ちゃんは、センスの良いサーモンピンクのツーピーススーツを着てる。僕のスカートも、全部姉ちゃんが選んでくれたものだった。  僕らは二人とも死んだ母さんにそっくりだったから、こうやってスカートを履いて並ぶと、すぐに『姉妹』と言い当てられた。  いつもは顔を隠してる長い前髪は、真ん中で分けて後ろに流している。  僕が唯一まともに話せる女性は姉ちゃんだけで、顔を上げて積極的に振る舞えるのは、女装してる時だけだった。 「姉ちゃん、特別手当貰ったんだ。今日は奢るよ」 「あら、ホント? じゃあ、ご馳走になるわ」  ウキウキと声を弾ませて、姉ちゃんは行きつけの個室居酒屋に向かう。  外から見たら『女子会』の僕らは、一杯目のカクテルで乾杯した。 「歩ちゃん、結婚おめでとー!」 「う……おめでたくもないよ」  僕は昨日の事を思い出して、頬を染める。  即座に姉ちゃんが反応した。 「あ、赤くなった。歩ちゃん、好きなんでしょ。同性婚なんか珍しくないんだし、良かったじゃない」  昨日は勢いでプロポーズを受けちゃったし、慶二の事は嫌いじゃないけど、それが結婚となると話はまた別だった。 「でも、僕の恋愛対象は女の子なんだよ」 「つまり、身体は許せないって事?」 「うっ」  やっぱり姉ちゃん、幾ら姉弟(きょうだい)とはいえ、デリカシーない! 「そうなのね。まだトラウマ、引きずってるんだ」 「う……うん」 「もう十年近く経つのよ。いい加減乗り越えて、その人と幸せになっても良い筈だわ」 「でも……」  僕は付け睫毛を乗せた瞼を伏せる。  脳裏には、中学生の僕を組み敷いて涎を垂らす、親戚のおじさんの顔が、昨日の事のように蘇った。  思わずぶるりと震えて、自分の身体を抱き締める。 「ああ、歩ちゃん、ごめん。歩ちゃんにとっては、簡単な事じゃないのね」 「いや……うん」 「で? 相手の人の素性は? 契約結婚だって言ってたけど」  焼き鳥を頬張ってから、姉ちゃんが訊く。 「内緒だよ。実は……小鳥遊財閥の人なんだ」  モスコミュールを呑み損ねて、姉ちゃんが派手にむせる。 「たっ……ケホッ、小鳥遊!?」 「うん。三十までに結婚しないと政略結婚させられるから、婚活パーティに忍び込んだんだって」  ハンカチで上品に口元を拭ってから、姉ちゃんは頬を紅潮させた。 「でも歩ちゃんの事、好きだって言ってくれてるんでしょ? 女性とまともに話せないのに女の子と恋愛するより、よっぽど幸せへの近道よ! 歩ちゃん、逃がさないようになさい」  姉ちゃんは押しが強い。押しに弱い僕は、曖昧に頷いた。  この力関係は小さい頃から変わらず、妹が欲しかった姉ちゃんが僕に女ものの服を着せて『姉妹ごっこ』する内に、次第にメイクもして服も揃えて、今に至る。  女装してると周りの反応が丁寧になるから、女装してる間は、前向きになる事が出来た。  今でも姉ちゃんと会う時は女装する事が、慶二との結婚のネックになるなんて、この時は思いもよらなかったのだった。     *    *    * 「お嬢さんがた、少しお時間ありますか?」  ひとしきり結婚のことについて二人で話し合った後、居酒屋を出ると超のつく高級車が、横にピタリとつけられた。  姉ちゃんと居るとナンパされるのは日常茶飯事だったから、僕は無視して対応を任せる。  滅多なナンパには引っかからない姉ちゃんだったけど、バツイチでフリーの姉ちゃんは、時々着いていくから困ってしまう。この時もそうだった。 「あら。何処に連れて行ってくれるんですか?」  げっ。付き合わされる僕の身にもなってよ! 「ホテルの最上階のバーで、一杯付き合って頂けませんか? 綺麗な方と、少し呑みたい気分なんです」  高級車の後部座席の窓から覗く顔は、苦み走った三十代半ばくらいの、良い男だった。僕はどんな人だって、男なんかご免だったけど。  でも酔っ払った姉ちゃんは、ぶりっ子して愛想笑いした。 「よろしくお願いしまーす」

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