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第1話
その人は、藤の花を引き連れてきたように、綺麗な人だった。
淡い雨がしとしとと音を立てて降りしきる、昼と夜の境い目。
この世とあの世の真ん中の世界を、あの人はこう言った。
――此処は、妖しいもんが群れをなす霧向こうの都、
夢妖京 だと。
樹齢何百年にも及ぶだろう染井吉野の木が、かつては小さな青い芽だったことを、どれほどの人間が想像出来るのだろう。
当たり前に毎年、雪のように白い花房を見事に湛えた桜を、今年も見上げる。
「…誰も、想像なんかしないよな。普通は」
俺が生まれる前からこの家の庭に、凛と聳える桜の木の表面をそっと撫でてみる。
男の俺の手とはいえ、やはり幹に比べればあまりに柔く、脆く思えてくる。
自然にふれると、人間なんて恐ろしく小さい生き物であることを、まざまざと思い知らされる。
こうでもしないと、俺は毎日やっていられないのだ。
俺が抱えている悩みなんて、花びらが1枚散ったのとなんら変わらない、と。
1時限目の終わりを告げる鐘が、教室に鳴り響く。
「青雨 くん!これ、受け取ってください!!」
会話もしたことのない女子が、俺に向かって全力で頭を下げている。
次の数学の授業の準備をしていた俺は、視線が一気にこちらに集中したのを嫌でも感じ取った。
「…受け取る分には構わないけど、君は俺になにをどうして欲しいの?」
「えっっ!そ、それは…」
差し出された甘い香りのする小袋を貰いながら、俺は質問をする。
周りの男子が、あぁー…と溜息をつく声が一斉に聞こえてくる。
見世物じゃないんだ、本当に、やめて欲しいです。
「俺に好きになってもらいたいんじゃないの?なんでそんなこともすぐに答えられないの?じゃあなんでわざわざ俺のとこに来てんの?」
「そ、それはそうだけど…は、恥ずかしくて」
頬を赤らめて、不自然にツインテールの毛先をいじり出す女子。
ああ、意味が分からない。女子っぽく言ったら、ガチで意味不明みたいな気持ちだ。
「恥ずかしいなら相手に 全て察してもらうのが君の常識なの?」
「え?」
女子の髪をいじる手が止まる。
男子たちが、ひっと息を呑む声が俺を更に駆り立てた。
「相手に本気で向き合いたいって思うなら、嘘偽りのない誠意と、真摯な態度を見せることがまず、今後の関係を築く上で重要だよ。
君は恥ずかしいから、好きだという気持ちを素直に伝えられずに、挙句に髪までいじり出した。言語道断だね。
君みたいな女子と付き合って恋愛をするだなんて」
「あ…そ、そんな…」
人間は度合いの大きいショックな出来事に立ち会うと、涙を流したり大声をあげて泣き叫んだりはしない。
文字通り、頭が真っ白になる。
だから、そうさせてあげるのが俺にとっての最大の優しさだ。
「邪魔だから、今すぐ元いた君の生活に帰ってくれ」
「…青雨ぇ、お前マジなの?」
「なにが」
「百合小路ちゃん可愛いのに〜、今まで青雨に告って来た中じゃ1位2位を争うぜ?」
「1位も2位も俺はいちいち覚えてなんかない。何の得もない」
「相変わらず酷い奴だわ…」
数学の授業中だっていうのに、一部始終を見ていたクラスメイトの男共が五月蝿い。
当然、それは女子も似たような反応であって。
「青雨、あんたいい加減にしなさいよ。あたしの友達みんな、青雨のこと狙ってるんだから」
「なかなか落とせないって噂になればなるほど、女としては燃え上がるってもんだよ〜。振り続けても良い事はないよ」
姦しいし、余計なお世話だ。数式に集中出来ない。
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