1 / 39

第1話

その人は、藤の花を引き連れてきたように、綺麗な人だった。 淡い雨がしとしとと音を立てて降りしきる、昼と夜の境い目。 この世とあの世の真ん中の世界を、あの人はこう言った。 ――此処は、妖しいもんが群れをなす霧向こうの都、 夢妖京(むようきょう)だと。 樹齢何百年にも及ぶだろう染井吉野の木が、かつては小さな青い芽だったことを、どれほどの人間が想像出来るのだろう。 当たり前に毎年、雪のように白い花房を見事に湛えた桜を、今年も見上げる。 「…誰も、想像なんかしないよな。普通は」 俺が生まれる前からこの家の庭に、凛と聳える桜の木の表面をそっと撫でてみる。 男の俺の手とはいえ、やはり幹に比べればあまりに柔く、脆く思えてくる。 自然にふれると、人間なんて恐ろしく小さい生き物であることを、まざまざと思い知らされる。 こうでもしないと、俺は毎日やっていられないのだ。 俺が抱えている悩みなんて、花びらが1枚散ったのとなんら変わらない、と。 1時限目の終わりを告げる鐘が、教室に鳴り響く。 「青雨(あおさめ)くん!これ、受け取ってください!!」 会話もしたことのない女子が、俺に向かって全力で頭を下げている。 次の数学の授業の準備をしていた俺は、視線が一気にこちらに集中したのを嫌でも感じ取った。 「…受け取る分には構わないけど、君は俺になにをどうして欲しいの?」 「えっっ!そ、それは…」 差し出された甘い香りのする小袋を貰いながら、俺は質問をする。 周りの男子が、あぁー…と溜息をつく声が一斉に聞こえてくる。 見世物じゃないんだ、本当に、やめて欲しいです。 「俺に好きになってもらいたいんじゃないの?なんでそんなこともすぐに答えられないの?じゃあなんでわざわざ俺のとこに来てんの?」 「そ、それはそうだけど…は、恥ずかしくて」 頬を赤らめて、不自然にツインテールの毛先をいじり出す女子。 ああ、意味が分からない。女子っぽく言ったら、ガチで意味不明みたいな気持ちだ。 「恥ずかしいなら相手に 全て察してもらうのが君の常識なの?」 「え?」 女子の髪をいじる手が止まる。 男子たちが、ひっと息を呑む声が俺を更に駆り立てた。 「相手に本気で向き合いたいって思うなら、嘘偽りのない誠意と、真摯な態度を見せることがまず、今後の関係を築く上で重要だよ。 君は恥ずかしいから、好きだという気持ちを素直に伝えられずに、挙句に髪までいじり出した。言語道断だね。 君みたいな女子と付き合って恋愛をするだなんて」 「あ…そ、そんな…」 人間は度合いの大きいショックな出来事に立ち会うと、涙を流したり大声をあげて泣き叫んだりはしない。 文字通り、頭が真っ白になる。 だから、そうさせてあげるのが俺にとっての最大の優しさだ。 「邪魔だから、今すぐ元いた君の生活に帰ってくれ」 「…青雨ぇ、お前マジなの?」 「なにが」 「百合小路ちゃん可愛いのに〜、今まで青雨に告って来た中じゃ1位2位を争うぜ?」 「1位も2位も俺はいちいち覚えてなんかない。何の得もない」 「相変わらず酷い奴だわ…」 数学の授業中だっていうのに、一部始終を見ていたクラスメイトの男共が五月蝿い。 当然、それは女子も似たような反応であって。 「青雨、あんたいい加減にしなさいよ。あたしの友達みんな、青雨のこと狙ってるんだから」 「なかなか落とせないって噂になればなるほど、女としては燃え上がるってもんだよ〜。振り続けても良い事はないよ」 姦しいし、余計なお世話だ。数式に集中出来ない。

ともだちにシェアしよう!