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1. REX
クリスマスを目前に控えたロンドンは連日の雨だった。月も隠れる晩は街灯に照らされて、浮かれたネオンは雨に霞む。昼間に働いた者たちが店仕舞いを始め、入れ替わるように開いていく夜の店。「OPEN」の文字を掲げたパブには一人、二人と客が寄る。
夜も盛りの、午後十時。
ちょうど雨脚が俄かに強まった頃、一軒のパブに一人の青年が入って来た。
黒のコートから覗くのはすらりと長い脚。腰の細さを強調するシルエットのコートは女もののようにも見える。身長が足りないわけでもないのに、ブーツには少しのヒールがあった。存分に下半身のスタイルを見せつける彼は、入り口からカウンターを見やってにやりと笑う。
その顔立ちはまさに、夜の花。白い肌にはくすみの一つもなく、薄い唇は紅を引いたかのような艶がある。丸い瞳はスカイブルー。ロンドンっ子が焦がれる澄んだ色は長い睫毛に囲われている。極めつけに、天然のアッシュブロンドだ。
柔らかいウェーブを描くそれを跳ねさせて、青年はカウンターの男たちに歩み寄った。
カウンターにいたのは、四十歳近くの男たちだ。彼らはくだらない話で笑い合っていたのだが、その青年を見て一様に顔を輝かせた。よく来た、久しぶりだな、さあここへ座れと口々に青年を歓迎する様子は、傍から見ても彼らが馴染みの者たちなのだと分かる。青年は上機嫌に微笑みながら、促されるまま男たちの中心へ座った。近くのテーブルからも何人か寄って来る。何を飲む、と問われる様子は、ここでの飲み代を青年が一銭も出さないことを予感させるようなものだった。
すぐに差し出されたグラスを満たしていたのは、ウィスキー。氷が音を立てる。青年は細い指でグラスを持ち上げ、男たちに向かって軽く掲げてから口を付けた。一気に飲み干す、などということはせず、まずは一口。青年にキスを落とされたグラスを羨ましがる視線がちらほら。
誰かが、青年のズボンの裾が濡れていることを指摘した。外は雨だ。
「さっき水溜まりを踏んだんです。安物だから構わないけれど、今日は酔いたい気分かな」
発された涼やかな声は、こんな騒がしく男くさい酒場には似合わない。
しかし男たちは興奮気味に自らのグラスを青年に掲げて、この夜に乾杯するのだ。
――我らが女王、夜の花! ああ麗しき、俺たちのレックス!
男たちの心の歓喜がアルコールに溶けていく。
レックスという名の美しい青年は、その様を眺めながら口角を上げた。
◇◇◇
言葉通り、レックスはその夜、強かに酔った。いや、酔わされたと言った方が正しい。男たちは芳しく咲いた夜の花に入れ代わり立ち代わり話しかけ、グラスが開く度に次の酒を勧めていった。どれもこれも、初心な女が好むような類の洒落たものではない。ウィスキーだウォッカだと手渡されるグラスを、レックスは苦笑しながらも全て空にした。時計の針が頂点を指す頃には酩酊状態。真っ赤な顔でカウンターに倒れ込む。大丈夫か、とその細い肢体を揺すぶる男の中にも、確かな下心が。しかしこれは全く合意の状況なのだ。
レックスが酒場に顔を出し、「今日は酔いたい気分」と笑う。そんな夜は、つまりはそういうこと。翌朝寝坊できる者たちが、この極上の美を楽しめる。
緩慢に体を起こしたレックスも、ぐらぐらする頭で周囲を見回し、艶の増した唇で弧を描きながら「水」と言った。
夜の終わりだ。グラスいっぱいに注がれた水を、レックスは飲み干す。今日はいいんだろう? という囁きの問い。レックスは上機嫌に笑いながら喉奥で笑う。近くの男の首に腕を回し、引き寄せて、戯れのキスをした。
そのまま店を出るのか、と誰もが思った。しかし彼はふらりと立ち上がると、酒場の隅へと歩いて行く。覚束ない足取りに、近くにいた男たちが慌てて腕を伸ばして彼を支えた。
そうして無事に辿り着いたのは、誰も見向きもしていなかった、何やら布を被ったもの。
「マスターぁ、これ、まだ動きます?」
変に間延びした声で、レックスはカウンターに立つ初老のバーテンダーに問いかける。彼はこくりと頷いた。
楽しそうに、レックスがその布を取り去った。
そこに置かれていたのは、一台のピアノ。
「なんだ、レックス、ピアノなんか弾けるのか?」
「ふふ、弾けるよぉ、大得意」
踊るようにピアノの前に座り、人差し指で適当な鍵盤を一つずつ叩く。可愛らしい戯れに男たちは笑った。でたらめな音階に、上手い上手いとおふざけの喝采が飛ぶ。レックスも声を立てて笑っていた。
それから両手を鍵盤の上に置いて。
――美しい旋律を、奏で始めた。
その場にいた全員が度肝を抜かれる。
まさか本当に弾けるなどと誰も思わなかったのだ。レックスの素性は、実は誰も知らない。どこに住んでいるのか、何の仕事をしているのか、そもそも年齢はいくつなのか。ただ、こんな夜更けに酒場に顔を出し、周囲の男たちに自分を強かに酔わせて、淫らな一夜を誘う。そんな青年が、ピアノを学ぶような生活をしてきたとは思えなかった。
歩くのさえ心許なかった青年の指が鍵盤の上で踊っている。酒場の客全員が、突然登場したピアニストに注目していた。深夜の酒場には些か不釣り合いな旋律に耳を傾けた。聞き馴染みのあるような曲だ。跳ねるように、紡がれる音。
三分ほど、だろうか。
レックスはゆっくりと曲を終え、立ち上がって綺麗に一礼をした。
拍手が沸き起こる。それに応える赤い顔は明らかに酔っている。指だけが別の生き物のように動いていた、と近くで見ていた者は思った。
蕩けそうなスカイブルーの瞳が酒場を見渡し、ピアノから離れようとした時。
「――『くるみ割り人形』、か」
どこかから声が上がり、レックスは立ち止まる。
声の主はすぐに見つかった。レックスたちがいるカウンターからほど近いテーブルだ。老齢の男がブランデーを片手にこちらを見ている。声から感じられる年齢の男は、他にいない。
レックスはにこりと笑った。
「そうです。序章だけ。よくご存じで」
「大した腕だ。どこで学んだ?」
「……秘密」
歩こうとしてふらつき、近くの男に自分の身体を支えさせる。そうしながらも、レックスの瞳は老齢の男を見つめていた。熱っぽい視線だ。
常連の男たちなら知っている。
品定めの目。
レックスは、確かにその男の方へと歩き始めた。周囲の男たちはその身体を止めたくて、止められない。不用意に触れて機嫌を損ねたくないのだ。過去、それで痛い目を見た者がいる。
誰にも邪魔されることなく、寧ろ時には支えさせ、酔ったピアニストは物知りな観客のもとへとたどり着く。
老齢の男は手にしていたグラスをテーブルへ置いた。ぼすん、と隣に腰かけたレックスの後ろに腕を回す仕草は、その良い身なりに似合わず遊び慣れた色男のそれだった。
深いグリーンアイズ。グレーの髪はまだ豊富で、後ろに流すようにきちんとセットされている。軽い髪質が描くウェーブに老いは感じられないが、目元や口元に寄った皺には確かな年齢が刻まれているのが分かる。顔立ちは、どうもラテン系のようだ。それにしては肌の色が白い。
レックスに顔を寄せられるのを、その老齢の男は楽しそうに受けた。
「お名前は、サー?」
「……ミロだ」
「ふ、あははっ、俺、あなたのこと知っています。ミロ、ミロ・クローチェ」
正体を知っている、と得意げな子どものように。
ミロは笑いながら肩を竦めた。自分のグラスをまた持ち上げて、レックスの唇に触れさせる。
「私もお前を知っている、と言ったら?」
「……ふふ、場所を変えたい?」
「お互いに、だろう」
そう言うや否や、ミロはレックスの腕を掴んで立ち上がった。残りのブランデーを一気に煽る。立つと、年寄りとは思えない体躯が露わになる。レックスも長身の方だが、ミロはそれより頭一つ高い。筋肉もありそうだ。そもそも、レックスの腕をつかむ力が強い。
テーブルの上に、多すぎるほどの紙幣を置いて。
「悪いな、若造共。この女王サマは今夜、私のものだ」
ミロはカウンターのあたりで呆けた顔をしていた男たちにそう声をかけ、レックスの腕を引いて酒場の外へ向かう。見た目で言えば、明らかにミロの方が年上だった。六十の近くではなかろうか。レックスはほとんど拉致のように連れ去られているというのに、男を見上げながらぼんやりそんなことを思っていた。まだ酔っているのだ。
すぐにタクシーが捕まった。後部座席に押し込まれ、レックスは隣に乗り込んできたミロに向かって笑みを見せる。
「強引ですね、――高名な劇作家さん?」
「お前こそ派手な夜遊びだな? 音楽界のサラブレッド、レックス・フランチェスカ」
互いに暴き合い、ミロがタクシーの運転手に行き先を告げた後は、車内は無言だった。
目的地の名前をレックスは知っていた。ここからは少し遠い。ロンドンの外れ。
……錆びれたモーテルだ。
◇◇◇
部屋に入った途端にミロはレックスをベッドに押し倒した。確かにここは小さく粗末な部屋とはいえ、客の入りもまばらなモーテル。そういう目的の客も多い。行動としては間違ったものとは言えないだろう。
しかし、ここに来るまでに酔いもいくぶん醒めたレックスは慌てて逞しい老体を押し返そうとする。
「ちょっ、と、待って!」
「何だ、今夜は酔いたい気分なんだろう? 任せてくれ、天国に連れて行ってやる」
「言い回しがダメ、ぜんぜんダメ! わ……っ」
細腕でミロの肉体に敵うはずもなく、顔を寄せられ、鼻先を掠めたきついアルコールとタバコのにおい。それから、仄かな香水の名残。
耳朶に触れた乾いた唇に、レックスは思わず身体を震わせた。まだ頭には酔いの熱が燻っている。いつも以上に力は無いし、これで甘いキスなんてされようものなら流されてしまう。
「お、俺のこと、知ってるって……!」
「知っているとも。天才と名高いヴァイオリニストのジャイルズ・ミラーズと、女神の歌声と称えられる美人オペラ歌手ソニア・ウィルビーの息子。フランチェスカという姓は、魔術師と謳われた舞台演出家マウリツォ・フランチェスカのものか?」
よどみなく並べられた名に、レックスは目を見開く。全て事実だ。父親の名前、母親の名前。
とはいえ、最後の情報をミロが知っているのはおかしい。
「なんで爺様のことまで」
「驚いた顔がこの上なく可愛いじゃないか。ん? お前も私のことを知っているのだろう?」
「……っ、まさか、爺様とお知り合い……?」
表情を引きつらせた、弱々しい問いかけに、ミロはにやりと笑うことで答える。
唇を食もうとするとレックスに顔を背けられた。そうして露わになったほんのり赤い耳にまた口付ける。ついでに吐息も吹きかけると、何度も戯れの夜を経験した身体は面白いように翻弄される。
レックスの目が、とろんと蕩けてきた。
きゅっと引き結ばれた若々しい唇。ミロに諦める気はない。
「マウリツォのことならよく知っている。酔った時に口を滑らせた、義理の孫の話もな。両親の離婚で家を飛び出して、生ける伝説なんて呼ばれた男に身売りするなど、とんだおてんばウサギじゃないか。その話を聞いた時から、一目会いたいと思っていたんだ。……話通りの美人で嬉しいよ。跳ねまわるような旋律。恋の火花が散ったんだ。嗚呼、白く眩い夜の花。人を惑わし跪かせる、麗しい〝レークス〟……」
首筋から舐めるように低く掠れた声を注ぐ。レックスは赤い顔で目を瞑り、全身を這うような色気のある声に犯された。身体の奥がどんどん熱くなっていく。もともと、今夜は酩酊するほどの快楽を期待していたのだ。腰をするりと撫でられて、下肢が跳ねるのを抑えられない。
グリーンアイズが爛々と輝いて自分を狙っている。獣のような本能的な欲。ミロの身体を押し返そうとするほとんど役に立たない細腕から、ついに力が抜けていく。
大きな、皺のある節くれ立った指が、服の裾から素肌に触れる。
その手は酷く、熱かった。
「言い回しを変えてみたんだが?」
「バカじゃないんですか……、そういうのは、んっ、次の新作劇に取っておいて……、そ、それより、よく知り合いの孫に手を出せますね……っ」
「背徳感がいいスパイスだろう? もちろん悲劇にするつもりはない。胸焼けするほどのハッピーエンドをご覧に入れよう」
深く落ち着いた声が、反則だと叫びたいくらいの麻薬になる。
老齢ながらも整った顔立ちの男に、こうも情熱的に口説かれてしまっては、ダメだった。
レックスは寄せられる唇を拒めずに、熱い口付けを許してしまった。
「ん……、っは」
「ふふ、夜の扉が開いてしまったな」
「黙って……。爺様には、内緒だからね、変態劇作家さん……」
二度目のキスは、確かな許容。
淫らな喜劇の幕開けだった。
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