2 / 2
2. LLL
ミロ・クローチェ。世界中の大劇場を満席にする、猥雑な喜劇から咽ぶような悲劇、現代風刺の新作から誰もが親しむ古典作品まで、あらゆるストーリーを操り観客の歓声を引き出すベテラン劇作家である。映画やテレビといった媒体が世を占める時代においても、彼の作品は常に多くのファンを抱える。生粋の南イタリア人。御年、六十三歳。
その見目の良さや情熱的な文句を無数に紡ぎ出す口で、数々の浮名も流した彼が、ようやく落ち着いたかと噂されていた矢先。
二か月ほど前から、ご執心の人間がいるという。
「ぁ、あん、あっ」
「可愛い。お前の声は本当に可愛いな」
とても六十を過ぎたとは思えない体力と体躯。その下で揺すぶられるのは、四十近く年下のうら若き青年だ。柔らかなアッシュブロンドを枕に押し付けて、ひっきりなしの嬌声を上げる。肉付きの薄い細い脚はミロに抱えられて逃げられないし、何より彼の後ろは衰えの見えない剛直を咥え込んでいるのだ。正常位で抱かれる彼は、ミロの背中に腕を回して、爪を立てるのを必死で我慢する。
「ん、んぅ、ゃ、……っは、も、ぁあ……!」
「何だ? もう? イきそうか? 何度目だ、ん?」
「いじわる、いわな……っ、やぁっ」
一層深くを穿たれて、青年、レックスは思わず指に力を入れてしまう。それに気付いて、自らミロの背を手放した。行き場をなくした腕は枕を掴み、小刻みに震える。
ミロとしては、背の傷は男の勲章である。存分に付けてもらいたいものだが、レックスはどうやらまだ雑誌の取材などで世に顔を晒すミロの身を気にしているらしい。裸の背を見せる仕事などないと言っても、「癖になってあちこちに痕を付けるようになっては不便でしょう」と。あんまりにも可愛らしく唇を尖らせるものだから、ミロも知り合いが見たら飛び上がって驚きそうな蕩けた笑顔で「そうだなぁ」と言うしかなかった。
今日も、その若い気遣いには気付いている。ミロはにやりと笑うと、レックスの腰を掴んでいた手の片方を離して、枕にとられたレックスの手を握った。
肌と肌がぶつかる音が、二人の寝室に響いている。ここはミロの、イタリアの自宅。地中海が見渡せる窓にカーテンは無く、そして今は真っ昼間だ。燦々と陽光が降り注ぐベッドの上で淫靡な交わりに耽る彼らは、時折、思い出したようにキスをする。
「ん、ふ、……ぁ、ミロ、いい、キス……」
「キスが好きか?」
「すき、すき……、んんっ、ぁ、もう」
レックスはミロの射精をねだっている。しかしミロは、言葉を悪くして言えば、遅漏だ。ミロが満足するまでに、レックスは何度も絶頂を強いられる。ミロのものとは色も形も違うソレを扱かれて達する時もあれば、中で極めさせられてびくびく跳ねる腰を意地悪に抑え込まれる時も。
快楽で涙の膜を張った瞳が、空の色を映す海のようだった。
ミロは薄く汗をかきながらそれを見下ろし、心底楽しそうに、レックスの耳元に唇を寄せる。
『――――』
「っ、ま、またそれ……、イタリア、語、わかんない、のに……!」
「ふふ、悪いことは言っていないさ、愛しい人」
レックスは、実際に血は繋がってないとはいえ、イタリア人の老翁のもとで青年期を過ごした。
双方ともに音楽界に名をはせた著名人である父と母、その二人が離婚をした時に、レックスはどちらに寄り添うでもなく家を飛び出した。そうして夜の街を暫く彷徨い、酒に酔った様子の老人を捕まえてその身を売ったのである。育ちのいい「お坊ちゃん」だったレックスに、夜に相応しい態度や言葉遣いなど分かるはずがなかった。しかし息を呑むほどの美貌である。レックスの顔をまじまじと見たその老翁は、にこりと笑ってレックスをホテルへと連れ帰り、……優しい言葉と温かいお茶に解された心で泣き始めたレックスを、実の親のように一晩中抱き締めていた。その男こそが、魔術師と謳われた伝説的な舞台演出家、マウリツォ・フランチェスカだった。
帰る家が無くなったと言う、感性豊かで見目麗しいレックスをマウリツォも気に入り、ついには自分の姓を名乗らせるまでに至った。二人は本当の祖父と孫のように暮らした。しかしマウリツォはレックスの前では英語しか使わなかった。だからレックスは、イタリア語が分からない。
それを知っていながら、ミロはこうした情事の際に、イタリア語で何かを囁くのだ。
後で訊いても、「何と言ったか忘れた」ととぼけられてしまう。レックスはその度に頬を膨らませるが、自分でも熱に浮かされた頭で聞いた単語など鮮明に思い出せるわけもなく。結局はもやもやしながら、また肌を重ねてしまう。
今日も、ミロはいくつも言葉を落とした。
レックスはやはり、自分の甘い嬌声と混ざって、よく聞こえてはいなかった。
――と、諦めて終わる青年ではない。
その日の夜、仕事があると言ってミロは出掛けて行った。早く引退したいとぼやきながらもまだまだ多忙な男だ。昼間から情事に耽っていたのは、夜に仕事があることを知っていたから。
完全に養われている立場のレックスは、愛らしく、彼にいってらっしゃいのキスをする。たったそれだけの触れ合いで元気になったミロが車に乗り込むのを見送って、レックスは急いで寝室へ戻る。
ベッドサイドの、小さな観葉植物。
「……よし」
そこに隠されていたのは、小さなボイスレコーダーだった。録音が完了したことを告げる赤いランプがついている。レックスはそれを持って、自分に与えられた部屋からイヤホンとイタリア語辞典を掴んで、リビングに向かう。
寝室と同じく大きな窓からは美しい夜景が見える。お気に入りのソファに寝転がり、ボイスレコーダーにイヤホンを差した。
気合を入れて、再生ボタンを。
『――ぁ、あん、あっ』
録音されていたのは紛れもなく、彼の喘ぎ声だ。
レックスはあまりにも情けなく女々しい自分の声に顔を顰める。早回しのボタンを長押ししてそれをやり過ごした。聞きたいのはこんな馬鹿みたいに熱に浮かされた自分の声ではない。
目当ての声は、ミロの。
『――――』
「これだ……」
イタリア語。
レックスはレコーダーを止め、イタリア語辞典を捲った。彼は、英語以外にはフランス語にしか素養が無いが、耳は人並み外れて良い。一度聴いた音楽ならばピアノとヴァイオリンで完璧に再現できる。才能がありながらプロの道を目指さないのは、両親への失望ゆえだ。
学ぶ機会と意欲が無かっただけで、言語も実は得意分野。
明瞭な音さえあれば辞書が引ける。その自信があったレックスは、羞恥心に勝ってボイスレコーダーを仕込んだのだ。
発音だけを頼りにつづりを探す。語形の変化を想像しながら、集中力を働かせた。
一つずつ、組み合わせて。
三十分以上かかって、ようやく一つの答えに辿り着く。
「〝私のおいしそうな子ウサギ〟……?」
何だそれは、と思わず鼻で笑ってしまって。
その後で、赤面してしまう自分に気付く。
口説き文句のようなものを言われているのだろうな、くらいには思っていたが、まさかこんな言い回しをされているとは。食われていることに違いは無いが。
苦々しく笑いながら、彼はまたレコーダーを動かして次の言葉に取り掛かる。
結果は似たようなものだった。
「私の小さな海」「私の極上の宝石」「私のただ一人の人間」「私の愛――愛してる」……。
私の、私の、私の! レックスもすっかりその単語を覚えてしまった。決まり文句のように頭にくっついている。分かりやすい独占欲。所有欲。流石に芸術家肌の我が強い男だ、そういった類の欲があることは重々に承知していた。しかし、まさか伝わらないようにわざわざイタリア語を選びながら、こんな鎖を垂らしていたなんて。
レックスはこつこつと辞書を指先で叩きながら、緩む頬を押さえられなかった。
愛されている感覚は、悪くない。寧ろ心地が良い。
二か月前、ちょっと話をしようと思って誘っただけの男だった。老齢だったし、お互いに素性を知っているようだったから、何も起こらないだろう、と。それがその夜のうちに抱き潰されて、巧みな口説き文句で落とされて。誘われるがままにイタリアに来て、一緒に住み始めて、今ではほとんど新妻だ。暇さえあれば触れてくる不埒な指を、仕方がない人と笑いながら受け入れる。ミロの甘すぎるキスも好きだ。大きな手に腰を一撫でされただけで、縋りついてしまうくらいには虜にされた。年齢の差を気にしたことはない。皺のある乾いた肌を指でなぞるのは楽しいし、低くしわがれた声を聴くと酷く心が落ち着く。何よりミロには絶対的な余裕がある。無駄な衝突は起こらない。互いに相手を尊重する術を知っている。レックスの我が儘を笑いながらきいてくれるし、逆に時折、ミロがレックスに対して我が儘を言うことで、若い自尊心も満たしてくれる。指を絡ませられて鼻先を突き合わせ、今夜、とねだられるごとに、二人の距離は近くなる。
つまるところ、レックスはミロを愛していた。
「Large、Loud、Love……」
言葉遊びのように思いつく。抱えきれないほど大きく、耳を塞ぎたくなるくらい執拗にうるさい、彼の愛。
彼のことは何でも知りたい。尽くせるだけ尽くしたい。その思いで、レックスはまたボイスレコーダーを再生し始める。そろそろ本格的にイタリア語を勉強しようかと思っていたところでもあった。それから、もう一度、ちゃんとピアノに向き合ってみようかと。幼い頃から父と母に押し付けられた「課題」に過ぎなかったピアノとヴァイオリン。本心では、嫌いではなかったのだけれど、親への反発から、嫌いと思い込むようになって。
だけど今なら、また好きになれるだろう。酔った勢いだけではなく、ちゃんと、愛する人へ捧げる曲を奏でることができるだろう。
レコーダーの残り時間が少ない。レックスの記憶が正しければ、次が最後の言葉をはずだった。
最後は、何だか長い文章で言われたような気がする。
集中して単語を一つずつ聞き取りながら、レックスは夢中で辞書を捲った。やはり文章だ。構造については無学だから連想をするしかない。何度もページを行き来して、浮かび上がってきた意味は。
「〝お前の可愛い声を、私に内緒で、残すなんて、お前は悪い子だ〟……?」
何度も読み返してみて、徐々に、レックスの顔が引きつっていく。
……ボイスレコーダーに気付かれていた? まさか、完璧に隠していたのに。
驚きで混乱する彼の、頭上から。
「お勉強の時間は終わったか?」
「っ、ミ、ミロっ?」
慌てて体を起こしてイヤホンを外そうとし、その前に、いつの間に帰って来ていたのか悪戯っぽく笑うミロに抱き締められる。上半身をがっちりと掴まれて、首筋に手をやられては逃げようがない。辛うじて片耳のイヤホンを外し、額に落ちてくるキスを混乱しながらも受けた。
「な、なんで、……もうそんな時間?」
「今夜は早めに帰ると言わなかったか?」
「聞いてない!」
絶対に、言っていない。ミロはそれを分かっているのだ。にやにやと笑う顔は、レックスを現行犯で捕まえた愉悦に満ちている。意地の悪い行為にレックスは可愛らしく唇を歪めた。身を捩った時に、腹の上に乗せていた辞書がソファの下へと滑り落ちる。
「そんな顔をするな、愛しのレークス。食べてしまいたくなるだろう」
「ふん、おいしそうな子ウサギなんでしょう。ミートパイにでもして」
「どちらかと言えばクリームパイだな」
「もう!」
大好きな声が隠語を囁く。レックスが暴れても、がっちりと抱き締められて動けない。
首に回された手の親指に顎を持ち上げられ、そのまま流れでキスをした。鼻から抜ける甘い声に、お互いの気分が高まっていく。
と、ミロが少し顔を離して肩を竦めた。
「今すぐ抱き潰したいところだが、そうすると、今夜ばかりは私の頭が割られてしまう」
「……何ですか、それ?」
「客人だ」
唐突に離された腕。無くなった温かさを名残惜しく思いながらも、レックスはソファから身体を捻ってリビングの入り口を見た。
そこに立っていた男に、じわりと、喜びの笑みを広げて。
「爺様!」
――この後、可愛い義理孫に手を出された老舞台演出家が一晩中豊かな語彙でミロを罵り続けたのは、また別の話。
ともだちにシェアしよう!