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プロローグ
マグカップを片手にリビングを出た。
ベランダに咲くはずの花は全て枯れ、枝から伸びる葉も蕾だったような形を残すふくらみも全て首から折れて項垂れている。
ベランダに立ち、下を見下ろすといつもの風景だった。知らない人間同士が行き交っている。深くため息をついたが、外の喧騒とともにかき消された。
昨夜、小さなショートケーキといつもの紅茶で僕の誕生日を祝った後、妻は私に封書を手渡し家を出た。封書にはすでに妻のサインがされた離婚届があり、妻の荷物の送り先を書いた小さなメモも入っていた。
今まで太一くん、と僕を呼んでいた妻だったが、封書には「磐田様」と書かれていた。
そんなひんやりする封書を、マグカップとともに机に置いて、出勤の準備を始めた。
別に何も変わらない、いつもと変わらない朝なんだな、そんな風に一息ついて。
自宅から勤務先までは自転車で10分。今日は歩いて通勤してみることにした。42歳になった最初の朝は、いつもと変わらず静かだった。
いつの間にか部屋に住み着いた女性と成り行きで入籍し、子供も出来ずに10年、感情の起伏もあまり無く過ごしてきた。あなたがいなければどうにかなってしまう、なんて情熱的な感情などは感じたことが無い。
悔しくて泣いた記憶も、喜んではしゃいだことも記憶に無い、僕の記憶はいつも凪いでいて、穏やかというより色が無い。無色なんだが透明でもない。
感動の無い人生が独身に戻ったことでますますつまらないものになることは間違いない。
「磐田課長」
呼ばれて僕はハッとした、そう、42歳初日、先週の辞令により僕は課長に昇進したのだった。 僕にとっても元妻にとっても、僕の昇進はさほど感動的なものでもなく、祝うことも無く、週明けの今日、思わずハッとした。そうだ、そうであったのだ、と。
「磐田課長、朝礼の時間ですよ」
遅くも早くもない僕の昇進に、周囲の部下たちも戸惑いは無いようで安心した。違和感無く「課長」と呼ばれ、長くも短くも無い朝礼を行った。
目立たぬよう仕事をし、黙々と成果を上げ、周囲にそれとなく認められて昇進し、感動も無いまま「課長」一日目を終え、帰路へ急ぐ。
今夜からは妻が居ないのだ、時間を見て役所へ離婚届を出さねば、夕食は何にしよう・・・様々なことを考えていたら、原付バイクに撥ねられてしまった。
宙を舞った僕は、アスファルトに強く頭をぶつけてしまったらしいのだ。
ぶつけた・・・というのは後から聞いたのだが・・・・・・。
気が付いたときには僕は救急医療センターの消しゴムのような白い真四角の硬いベッドの上だった。着衣は脱がされ薄紫の病院着を着ていた。
目覚めて夢ではないかと思った。
「目覚めましたか?大丈夫ですか?」
僕に声をかけたのは、僕が今までに目にしたことの無い美しい美しい人間だった。
倒れた僕を見つけ、救急車を呼び、今まで付き添ってくれたという、その青年。あまりの美しさに僕は大きく目を見開いて、ああ夢なんだ、そう思ってまた目を閉じた。
そう、これが、僕と孝彦との出会いだったのだ。
僕の心の日常が変わる。
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