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香の壱
点滴の雫の音など聞こえるはずも無いのに、甲高い水滴の音が、耳の中で大きく共鳴しているようで、眠れずにいた。
僕は退社後徒歩にて帰宅途中に、原付バイクに撥ねられた。
各検査を終え、警察の長話を聞き、ようやく病室に1人になれた。それよりも、救急車を呼び、僕にずっと付き添ってくれていたというあの年齢不詳の美しい人間はどこへ行ったのだろう。そればかり考えていた。
検査結果が出、異常が認められなければ退院することになるらしいが、僕はまだ退院するわけにはいかない。あの美しい人間ともう一度会いたい、会わなければ退院できない。その気持ちが高まっていた。
救急車で運ばれ、検査前に寝かされていた時に声をかけてくれた後、あの人はどこへ行ったのか、とてつもなく気になった。
2日後、まだ入院中の僕は警察に連れられ現場検証させられた。僕を轢き逃げた原付バイクの運転手は未だ見つかっていない。
僕は車椅子に座らされ、現場であれこれと話をさせられ、大変に疲れてしまった。
そのときである。目撃者である、あの「美しい人間」も現場検証に顔を出したのだ。
疲れが吹き飛ぶのが分かった。
「宇賀 孝彦です」
その美しい彼は、僕に初めてそう名乗った。その節は、と僕は頭を下げた。
彼は美しい横顔で警察に状況を説明していた。素性は分からないが、目撃者というだけで、時間を割いてこの場に来てくれたのはとてもありがたい。
怪我人の僕の体調を考慮し、1時間以内で現場検証は終わった。
帰り際僕は、「宇賀さん、お礼がしたい、また会えるかな?」と言ったが、孝彦は軽く会釈してその場を去ってしまった。
去り際、孝彦から伽羅の香りを感じた。
僕は寺の息子であるが、僕が小学生のころ母に連れられ寺を出た。以来僕は母に育てられ、寺とは関係の無い暮らしをしてきたのだが、この伽羅の香りだけは忘れられないでいた。
伽羅とは1グラムほどの木片であっても畳100畳ほどの範囲でも香りを広げることの出来るお香であり、大変貴重で効果なものである。
両親の離婚前、母は香りの道と書いて香道という芸事を習っていた。
香道とは、香木を焚き、その香りを鑑賞し、香木に宿る魂を感じて香りを「聞く」芸道である。中でも伽羅の香木は大変高価であり、その上質な香りは大変な尊さがある。
____孝彦からは、その香りが「聞こえた」・・・・・。
僕の頭の中にはますます孝彦が宿り、抜け出せなくなっていた。
検査結果により、問題なく僕は退院した。
打撲などの通院の必要性はあったものの、心配されていた脳へのダメージは無く、問題なく日常生活へと戻った。
退院後速やかに離婚届を役所へと提出し、元妻の荷物も妻が指定した先へと発送を終えた。すっきりとした部屋では、悶々と孝彦のことを考え、自慰を繰り返した。
孝彦への想いは日を追うごとに高まった。
僕は孝彦を探すため、しばらく仕事を休む決意をした。
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