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香の弐

 孝彦探しはそんなに難しくは無かった。  あの上品な香りは、普通の若者が「聞く」ことは無いからである。母の遺品から、香木取り扱い店などを訪ね、ようやく「宇賀 孝彦」にたどりついたのは、仕事を休んで2日目のことであった。    孝彦は、江戸中期より200年以上続く宇賀香木店の1人息子であり、あの高貴かつ血液沸き立つほどの伽羅の香りをまとった孝彦への興味は益々に高まり、片時も頭から離れることが無くなった。これは病だ。    考えれば考えるほど身も心も傷つける。  孝彦の家族に、孝彦の僕に対する事故対応への感謝を伝え、孝彦本人にも会いたい旨伝えると、いとも簡単に孝彦の連絡先を手に入れることに成功した。  孝彦の連絡先を手に入れたころには、僕の心の中の傷は内外に飛び出し、どのようなやわらかさで孝彦を傷つけ、どのようにあの美しい顔をこの手で歪ませようか、そのことばかりを考えるようになっていた。  孝彦の住む学生寮の前に立ち、彼の帰りを待った。  何時間経ったか、孝彦が現れた。  黒い麻のボタンシャツに白いジーンズと白い肌、とても美しかった。何かを口ずさんでいた孝彦は、僕の顔を見るなり驚きの顔をこちらへ向けた。  「!あなたは」  「宇賀さん、その節は、大変お世話になりました。事故の時には大変お世話になりました。磐田です、覚えてらっしゃいますか?」  孝彦は眉間に皺を寄せ、ゆっくり目を閉じて会釈した。      孝彦は水でいいと言ったが、店では2つ、アールグレイを頼んだ。    「ひと目で君が好きになった」  僕から沈黙を破った。  孝彦は目を落としたまま、なかなか顔を上げない。    「僕自身、男性が好きだとか女性が好きだとか、考えたことも無く、つい先日まで女性と婚姻していたんだ。しかし、君を見て、美しい君を見て君が僕から離れなくなった。だからこうして君を探したのだが」  孝彦はまだ顔を上げない。  「実は今、こうして君を困らせているであろう状況の中でも、うつむく君の顔がとてつもなく美しくて興奮が止まらないんだ」  アールグレイを一口、そして  「分からない、しかし、君が好きになった」  孝彦はゆっくりと立ち上がり、僕を見下ろして言った。  「僕の外見だけに興味を持ったのですね、あとどのような僕が知りたいですか?」 見下す目がゾクゾクと興奮を誘う。僕は茶代を支払い、黙って歩き出す孝彦を追って店を出た。  しばらく歩き、孝彦はタクシーを拾った。黙って乗り込む孝彦に続き、僕も乗り込む。行き先は分からなかったが、孝彦への興味が強く、不信感や不安はまったく感じなかった。  「僕を孝彦、と名前で呼んでください、苗字で呼ばれるのは好きではないので」 僕は黙ってうなづいた・・・。  「僕は二十歳の学生ですが、磐田さんはおいくつですか?」  「僕は先日42歳になった。警戒しているかい?」 孝彦は僕の問いには答えなかった。  孝彦は、僕が大学卒業の年に生まれたのか、わが子ほどの年齢なのだ。  車が到着したのは、人里離れた寺院であった。  寺院に入ってすぐ、『宿坊』と書かれた札があり、札に従い奥へ進んでいった。奥には、楓に隠れるように小さな小屋があった。    「ここは僕の『アトリエ』です」  孝彦はそう言って、僕を『アトリエ』に招きいれた。  「以前はきちんと宿坊として使われていましたが、今では僕のアトリエとしてだけ、使わせてもらっています。誰も来ませんから、ゆっくりしてください」  孝彦は、着替えてきます、と一礼して奥へと下っていった。

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