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第8話

今まで、こんな気持ちでこの扉の前に立ったことがあっただろうか……いや、ない。 いくら温和な司様でも鳴神家の将来に関わる事、主に対する裏切りだと、クビを言い渡されても仕方がない。 実際、家令なら言いそうだ。 「…………」 重厚な扉の前、何度か深呼吸を繰り返す。 意を決し、ノックしようとした瞬間。 「龍生君かい?入っておいで」 気配を察した司様の声は、意外にも穏やかで柔らかなものだった。 呼ばれてしまった以上、入らないわけにはいかない。 「失礼致します」 おはようございます、と頭を下げる。 「おはよう、龍生君」 にこやかな微笑みはやはり若君と似ていて、緊張が少し緩みそうになり、慌てて気を引き締めた。 「…………ふふっ」 吹き出した彼は、そんなに硬くならないで、と笑う。 そして、長くなるからと俺に座るよう促し、自身も向かい合う形でソファーへ移動する司様。 「今日は良い天気になりそうだね」 「……はい」 「君とじっくり話すのは久々だね」 ええ、と頷くものの、司様の口から溢れるのは世間話と思い出話。 相づちを打ちつつ、自分から切り出そうと口を開きかけた。 図ったように司様は、若君と同じ琥珀色の瞳で、俺を見据えた。 「……私はね、龍生君。あの子が小さい時から、傍にいてくれた君を息子のように思っているよ。感謝もしているし、君にも当然、幸せになってもらいたい」 「…………ッ!」 「だから二人が想い合っているのなら、反対する気はない」 ただね、と少しだけ哀しそうな色を瞳に宿す。 「もし、君が螢を私の代わりとして想っているなら「そんなことはありません!」 司様が言い切らないうちに、反射的に大きな声が出てしまった。 自分でも思いもよらない行動に動揺しつつ、失礼致しましたと咳払いをする。 「確かに初めはその……司様の面影を感じて、ですが」 言葉にならないもどかしさに、胸がモヤモヤする。 「ですが……」 と、再び言葉を紡ごうとした時だった。 「待って下さい父さん!」 勢いよく開かれた扉の先に居たのは、他でもない若君だった。 「父さん、龍生は何も悪くないんです」 だから辞めさせないで下さいと頭を下げる姿に、龍生君は呆然としている。 そしてはっとした表情で若様、と呼び掛ける。 そんな微笑ましい光景に思わず笑みを溢した僕は、螢に座るように言い、ある事実を二人に告げた。 「試すような事を言って悪かったね、龍生君」 本当は分かっていた、と。 「君は気付いていなかったろうけど、少し前から淹れてくれる紅茶の味が変わったって思ってたんだ」 驚きと動揺。 ここ数年の龍生君にしては珍しいそれに、頬がまた緩む。 「まさか、螢とは思わなかったけどね」 ちらりと息子を見遣れば、彼もまた顔を赤く染めていた。 そんな彼の名を呼び、手を伸ばす。 柔らかい髪を撫でてやりながら今度は龍生君を呼んだ。 「は、はい」 「螢が今まで頑張ってこれたのは君のおかげだ。ありがとう」 髪から手を離すと螢は不安そうにこちらを見る。 「この子はまだ若いし、いくつも困難が待ち構えていると思う。挫折する時もあるかもしれない。もしかしたら、龍生君より大事にしたい人が現れるかもしれない」 それでも、と言葉を切る。 「それでも君は、螢を支えてくれるかい?」 視線を合わせた龍生君の瞳には一切の迷いはなかった。 隣にいる螢の手をぎゅ、と握り。 「司様に拾って頂いて、若様にお仕えして俺はずっと幸せでした。もし……お許しが出るのなら、これからもお二人の傍で、螢様の隣で恩返しを、させて下さい」 お願いします、と頭を下げる龍生君。 「父さん、お願いします。龍生と一緒にいさせて下さい」 同じように頭を下げる螢。 二人を抱きしめたい衝動に駆られつつ、にこやかに口を開いた。 「おはようございます、若様」 「おはよう龍生、リオ」 今日も今日とて若君は俺の淹れた紅茶を飲み、予定を聞き、一日を過ごす。 「では私は車の準備を」 「ああ、よろしくな」 今までと変わらない日常。 ただひとつ違うのは。 「……今日はココアがいいな」 「かしこまりました」 夜は二人きりで過ごすのが、日課になったことだった。

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