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繭の中-23-*
氷剣により血の軌跡が描かれ、それを断ち切る様に傷口を押さえる。
咄嗟に治癒術式を施すが、剣術師の紡ぐそれは止血の為に薄皮一枚貼る程度のものでしかなく、負傷箇所も痛みもそのままである。
気が遠くなりそうな激痛を必死に堪え、立ち去ろうとするイグルの腕を掴む。
「だ…駄目だ」
イグルの腕を引き、倒れ込むように抱きしめると、脂汗を浮かべ顔を引き攣らせながら言葉を紡いだ。考える事も選ぶ事も出来ない彼に少しでも届けばと。
「私で、なくて…良いから、ちゃんと選んで…」
祈るようにイグルを抱きしめる腕に力を込める。
「貴方を大切に…あ、愛してくれる…人を……」
「指図される覚えはありません」
無慈悲な氷剣が背中に突き刺さり、アークは痛みに震えながらも抱きしめる力を強める。
「主に…相応しい人を……見つけるんだ」
「貴方には関係無い事だ」
再度振り下ろされた氷剣に片肺を潰されるが、掠《かす》れた生気の乏しい声で懇望する。
「……仕えるに値する人を見つけるんだ」
更に強く抱きしめるとイグルによって背中の傷に捉まれ、激痛から全身を軋ませる。その隙に身体を引き剥がされた。
床に崩れ落ちるものの必死に立ち上がり、追いすがろうと手を伸ばすが、対象物を掴む事無く空を掻き力なく落ちた。
一目もくれず遠ざかる背中に焦りと不安を覚え、引き止めようにも声が出ない。
――待って! 行くな!
――駄目だ! 駄目だ! 駄目だ!!
人でありながら人でない物に作りかえられた彼が。
痛みを痛みと認識出来ず。
傷を傷と認識出来ず。
主の気持ち一つで身を削られ、命をすり減らす。
それを回避する手立てが有るのに……。
有ったのに……。
弱い自分はそれを活かせなかった。
言葉は届かず、祈りは虚しく霧散するだけだ。
イグルを引き止める為には。思い留まらせる為には四肢を切断しなくてはいけないのに、崩れ落ちそうな身体を支えるだけで精一杯な自分は剣を紡ぐ事も出来ない。
今頃覚悟を決めても遅い。
此処までの重傷を負っては、請う事も出来ない。
――行くな!
――行くな!
――行くな!
視界が揺らぎ、床に崩れ落ちる。
出血と酸素不足から瞼を支える力も失い、目を閉じる。
潰れた肺の分を補う為もう片方の肺が懸命に活動し、心臓が通常よりも早く鼓動を刻むのを感じていると、左の手首に何かが這いずる感触が起こった。
重い瞼を抉じ開け焦点の合わない目で見ると、ヴェロニカに巻き付けられた恋愛成就の術具から赤黒い文字の術式が吐き出されていた。
文字は左手から一気に全身を侵食する。
床を見ればアークが流した血液が意思を持った生き物の様に動き、次の瞬間見た事無い術式を紡いでいた。
オルソン邸で魔術師が確認した際に『術式が途中で破綻した失敗作』と判断された術具が何故発動しいるのか分からず呆然としていると、血液で紡がれた術式が動き出した。
身体を蝕んでいた痛みが徐々に緩和され、正常な呼吸を取り戻した事から発動したのが治癒術式だと分かる。
術具は魔術師生徒の術具《もの》ではなくヴェロニカの作った術具《もの》であり、自分に何かあった際に治癒術式が展開される様に組まれていたのだと推察できた。
もう一度イグルと立ち会うチャンスを貰えたのだと、立ち上がろうとした時だった。
アークの意思とは関係無く左手が持ち上がり、見れば術具から無数の文字の鎖がイグルに巻き付き捕らえていた。
術式から逃れよとイグルは必死に藻掻くが、藻掻けば藻掻く程に文字の鎖は数を増やしより一層身体を縛り侵食して行く。
膝を折るまいとイグルは必死に抵抗するが、術式は容赦無く地に引き下ろす。
頭《こうべ》を垂れ、四つん這いになったイグルの身体から衣服が溶ける様に消えて行くの見てアークは慌ててヴェロニカを振り返った。
「先生なんですかこれは!」
「何って、貴様の願いを叶える術具だ。権利と尊厳を奪い、魂を縛り隷属させる外道の術式が組み込まれたな」
「そんな! 今直ぐに止めて下さい!」
「発動させたのは貴様だ。自分で何とかしたらどうだ」
術式を解除する気配の無いヴェロニカに憤りを覚えつつ、アークは手首にある術具に手を掛けた。
術式を一部でも破損させる事が出来れば止まるだろうと雷撃系の術式を紡ぎ電流を流す。だが組まれた術式が格上の為無効化されてしまう。
火炎系やその他の術式を試してみるが結局全てを無効化され傷一つ付ける事が出来ず「止まれ」と「外れろ」と叫びながら術具を掴み引いた。
だが、術式は止まる事無くイグルを一糸纏わぬ姿へと変えて行く。
「先生!」
助けを求め叫ぶが、ヴェロニカは壁に寄りかかったまま微動だにせず、その間に全ての衣服が溶け消えた。
奴隷に衣服は不要という様に裸とされたイグルは術式の鎖によって地に縫い付けられ、身体を這う術式は痛みを発生させているのか、身体を軋ませ呼吸を乱し、呻き声を上げる。
歯を食い縛り耐えるものの、首まで侵食していた術式は一気に口元までその枝を伸ばし無理矢理に抉じ開けると口腔へと進入し、更には体内へ入り込んだ。
内部を蹂躙され痛みか苦しみか、イグルは身体を大きく仰け反らせ、声にならない悲鳴を上げた。
痙攣し床に崩れ落ちる姿にアークはイグルに側寄る。
「イグル大丈夫か」
助け起こそうと手を伸ばすが、手が届く前にイグルは顔上げた。
白く色を失った顔におぞましい術式だけが蠢く。
もとより光が灯らない瞳でアークを見詰めると静かに頭を下げ、喘ぐ様に言葉を紡ぎ出した。
「わっ、わが……我が身は…貴方様のた…盾であり剣。我が魂とに、肉体を捧げ、永遠のちゅ……忠誠を……誓います」
低く下げた頭を更に落とす。
「待て、イグル止めるんだ」
イグルは座った状態のアークのつま先に口付けた。
顔が上げられるのを待つが、一向に上がらない。それどころか口付けた姿のまま動かない事に焦りを感じイグルに呼びかけるが返事は無い。
「貴様が受け入れない限りそいつはそのままだぞ」
「そんな……」
「絶対服従の契約が未完成なんだよ。銀髪は隷属する事を誓っているから、あとは貴様がそれを受諾するだけだ」
「もし、受け入れなかったら彼はどうなるんですか?」
「話を聞いていなかったのか? 貴様が受け入れなければ、そいつはそのままだ」
「そう…ですか」
自分の足元にひれ伏したまま動かない姿に陰鬱な思いに襲われる。
解除する事が叶わないならせめて一刻でも早く終わらせなくてはと銀色の頭にそっと手を置く。
「イグル・ダーナの魂と肉体がアーク・エス・ノエルに隷属する事を受け入れます」
言葉を言い終えるとイグルの全身を侵食していた術式が術具へと吸い込まれるように引き戻り、拘束が解かれたイグルは身体を起こした。
眼前に掲げていた手首の術具は解かれ、散り散りに消えて行くのを見ていると胸に痛み覚え、服を捲ると複雑な模様と文字で構成された紋章が刻まれていた。
見ればイグルの左胸にも同じ物が刻まれていた。
それは絶対服従の契約の証なのだろうが、アークには所有の焼印に思え、やるせない気持ちになる。
「すまないイグル。私か弱いばかりにこんな事になって」
憔悴しきった顔に手を伸ばすと、イグルはその手を素直に受け入れた。
「謝る必要はありません。私にはこれが必要なのです」
「だが……」
「私は力で蹂躙され、支配を受けないと生きて行けないのです」
だから謝らないで下さい――そう言われアークはイグルを抱きしめた。
「今は叶わなくとも、いずれ外道の術を解いて貴方を解放するから。どうかそれまで我慢してくれ」
それはイグルにと言うより自分に課す言葉であった。
イグルは感情の篭らない声で「必要ない」と告げたが、それを無視し、アークは固く誓った。
強烈な術式により体力を消耗したアークは何時の間にか眠りに落ち、次に目を覚ました時には見覚えのない部屋に寝かされていた。
自分が何処にいるかが分からず飛び起き、辺りを見回すと直ぐ側に裸に布を一枚羽織っただけのイグルが控え、部屋の隅に置かれたソファで寛ぎ本を読んでいるヴェロニカの姿があった。
「お目覚めですか。アーク様」
「イグル。身体は大丈夫か? 痛い所は無いか?」
「私は問題ありません」
「そうか」
表情も声も感情は読み取れないが、これまで完全な拒絶を示していたイグルの態度が軟化しているのを感じ、嬉しいような悲しいような気持ちになった。
アークは立ち上がると真っ直ぐヴェロニカへと詰め寄った。
「先生。何でこんな事をしたのですか?」
「何がだ?」
「何がじゃありません。絶対服従なんて外道の術を使うなんて信じられません!」
明らかな非難の目を向けるがヴェロニカは気にする事無く、開いていた本を閉じると溜息を落とした。
「アーク。何度も言うがな、術具を作ったのは私だが、発動させたのは貴様だ」
「それは……」
「いいか、あの術具は保険だったんだ。だから発動条件も貴様が死に掛けなければ発動しないように厳しく設定した。だと言うのに発動させたのは誰だ? 責めを負うのは私か、貴様か?」
「ですが、あんな物を作らなくても他にも遣り様があったのではないですか?」
「そうだな。貴様が銀髪の四肢を切り落とせればこうはならなかっただろうな」
自分の甘さを指摘され押し黙る。
「大体、絶対服従の術は完了している。今更たらればの話をして何になる。それよりも今後の事を考えろ」
そう言われ、アークはイグルへ振り返った。
作り物のように整った顔は何の感情も映してはいないが、新しい主である自分に対しても強制的に結ばされた契約についても不安に違いない。
少しでもイグルの不安を減らす事が出来ればと絶対服従の効力を問う。
「距離の制限や禁止事項などありますか?」
「いや、別に禁止事項はない。ただ貴様が強く念じるとそれがどんな事であっても従う。逆立ちしろと念じればそうするし、死ねと命じれば死ぬ。ただそれだけだ」
「なら、私が念じなければ彼には何の影響も無いのですか?」
「そうだ」
ヴェロニカの言葉を聞いてアークは重苦しかった心が少し軽くなった。
自分が望まなければイグルは何にも縛られずに済むのだと、安堵の息を吐いた。
「だが、念じなくとも銀髪はお前の命令を喜んで実行するだろうな」
僅かに浮上した気持ちがまた直ぐに落ちる。
見ればイグルは言葉を肯定するように頷いて見せた。
「まぁ、貴様らは仲良く未来設計でも語っていろ。私は解毒した小僧の様子を見てくる」
自分もジェリドの見舞いに行くと申し出たが「駄目だ」の一言で蹴散らかされた。
後を追おうと扉に手を掛けるが、静かな声に呼び止められ振り返る。
何時も迷いの無い白銀の少年の瞳が揺れているのを見て慌てて駆け寄る。
「イグル。どうした? やはり何処か痛いのか?」
「いえ、身体は問題ありません」
「それなら何か心配事か? 何でもいい言ってくれ。出来る限り善処するから」
真っ直ぐ見詰めるとイグルの方が目を伏せ、視線を逸らした。
「貴方は私の主です。主に隠し事は許されていません」
「隠し事?」
「私がこの国に来た理由です」
無言で次の言葉を待っていると、イグルは言い辛そうに続けた。
「私がこの国に来たのは……」
伏せていた瞳を上げ、アークを真っ直ぐ見詰める。
「テールス・エス・ノエルを抹殺する為です」
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