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第1話
2月になると男も女もソワソワし始める。
何故ソワソワするのか俺には分からなかった。
女の言い分としては2月14日、その日だけは女の方から告白していい日だからそれまで思いを伝えられなかった人に愛を伝えるのだと言う。
その日だけは……?
そんな殊勝なたまか?
少なくとも俺の知っている女の中に、そんな奴いない。
365日臨戦態勢整ったヤツばかりだ。
大体、本命にも義理にもチョコレート配りまくって「お礼は3倍返しでよろしく」ってなんだ?
他者に愛を伝える日なんだろ?
あるのは自己愛だけじゃねーのか?
えびで鯛を釣る気満々なのが分かるじゃねーか!
それでもチョコレートが欲しいのかと訊けば「欲しい」と男共は答える。
チョコレートなんか欲しければ自分で買えばいいじゃないかと思う。
樋野 さんもそう思わない?――と訊くと
「はぁ」
目の前の男は肯定とも否定とも取れる返事を返した。
「それにバレンタインデーって愛とは無縁の血生臭い日だった気がするんだけど……」
すると目の前の男は眼鏡の向こうで細い目をより一層細め微笑んだ。
「そうですね。バレンタインデーはバレンティヌス司祭の命日です。ですが、愛と無縁ではないんですよ。ローマが帝国だった頃ローマ帝国は軍の増強をはかっていまして兵士の結婚を禁じていたのです。
なんで禁じていたのか話すと長くなりますから省きますけど。結婚を望む兵士達の願いを叶える為に立ち上がったのがバレンティヌス司祭です。結果、ローマ皇帝に楯突いたという事で撲殺されてしまうんですけどね。ね? 愛と無縁ではないでしょ?」
樋野さんは優しく微笑んだ。
「そんな日に私利私欲の為に走るなんてなんだかな……」
「人は欲の為に生きているんですから良いのではないですか? 人を愛したい。人に愛されたい。何かが欲しい。何かをあげたい。全て欲です。間違いではないでしょう」
優しく微笑む。
「それはそうかもしれないけど……」
今一つ納得いかない俺は素直にそうですね――とは言えなかった。
「あと、チョコレートって何処から出て来たんだろう? アメリカってバレンタインデーに贈るものってカードとか花なんだろ?」
「それは――」
お菓子会社に訊いてみないとね――と言って樋野さんは悪戯っぽく笑った。
無邪気な笑顔。
とても俺より10歳も年上とは思えない。
ふわふわとした柔らかい雰囲気で、見ていると穏やかな気持ちにさせられる。
何時までも見ていたい気になる笑顔。
何時までも……。
「そんな事よりも今日締め切りの課題は出来上がりそうですか?」
急に現実に戻され慌てて手元のスケッチに視線を戻した。
「出来上がるよ! ッて言うか提出は直ぐにでも出来るんだけど……。あと1日待ってもらえないかな? どうしても直したい所があるんだ」
駄目もとで頼んでみた。
樋野さんはため息を吐いた。
「そう言う事なら僕から先生に話しておきましょう」
「本当!? やった!!」
「僕は伊部 くんの拘る姿勢とか好きですよ。いいものを創りたいと言う気持ちも分かります。納得いくまで頑張ればいいと思います。が、人によっては提出期限を守らなければどんなにいいものを提出しても評価しない事がありますから気を付けて下さいね」
ただの一生徒の俺の事なんかを本気で心配そうにしている。
良い人だな。
本気でそう思った。
「僕がここに居ると伊部くんの集中の邪魔になりそうだから退散しますね」
樋野さんは俺に背を向けると美術室から出て行った。
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