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第2話

 樋野(ひの)綾人(あやと)は俺の通う美大の教授アシスタントをしている人だ。  初めて彼を見た時はのほほんとしていて浮世離れしているように感じた。  何時も人の良さそうな笑顔を絶やさず、幸せそうに見えた。  彼には怒りと言う感情は無いのではないかと思った。  実際彼が怒っている所を見た事が無かった。  人間なのだから怒らない訳が無い。  ただ見せないだけだ。  本当は彼の内側はドロドロとして、陰湿なんではないかと考えた事もあった。  だか、そんな考えは直ぐに打ち砕かれた。  あれは何かの用で美術室に行った時だった。  誰も居ない室内に描きかけの絵があった。  筆も何もかもがそのまま置き去りにされていたのでトイレか何かで作者は居ないのだろうと推測出来た。  何気なく見た絵に俺は一瞬にして囚われてしまった。  ほぼ描き上がっているとはいえ未完の作品に俺は引き込まれてしまった。  なんて……。  綺麗な世界。  温かくて、澄んだ世界。  モチーフは学校の花壇の花たちのようだった。  何時も目にしているのに自分にはこんな風に見えた事も感じた事も無い。  人間は目で見た情報を脳で処理する為、実際にある物と見ている物には違いがあるらしい。  例えば真ん丸い林檎があったとしても自分の中で認識している林檎はほんの僅か楕円形のようになってしまう。  同じ物を見て数人に絵を描かせた時全く別の物に描き上がるのはその為らしい。  俺はそれが世界だと思っている。  人それぞれ世界を持っていてそれを他人に伝える為に絵を書いたり言葉にしたりするのだ。  自分の見ている世界の美しさを見せる為に。  俺は自分の世界の美しさに自信があった。  それまで自分の周りに自分より美しい世界を見ている者に出会った事が無かったから……。  だから俺は自分に酔っていた。  一人でも多くの人に俺の世界に触れてもらおうと必死に絵を描いた。  なんて……。  恥ずかしい人間なのだろう…俺は……。  俺以上の人間なんて幾らでも居るのに思い上がって。  バカで……。  惨めで……。  可哀想な……。  内側から自分が崩れていくのが分かった。  グラグラする。 「伊部くん?」  名前を呼ばれて振り向くと、眼鏡の奥の瞳を細め何時もと同じ微笑を浮かべた樋野綾人が立っていた。  俺よりも綺麗な世界を見ている人間。  俺が見る事の出来ない世界を見ている人間。  俺とは……。  足の力が抜け、崩れ落ちるようにその場に座り込んだ。 「伊部くん!!」  心配そうに樋野さんは近寄って来た。 「大丈夫ですか!? 具合でも悪いのですか!?」  真っ青になりながら必死に訊いてくる。  肩を揺さぶられてガクガクする。  見ればやはり眼鏡の奥の瞳は何時ものように細くなっていた。  だが、何時もなだらかな曲線を描いている眉毛は歪に折れ曲がっていた。  それが何故か可笑しくて……。  俺は笑った。 「伊部くん?」  不思議そうに俺を覗き込む。  俺はその時、少しだけ崩れていたのかも知れなかった……。

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