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第7話
車は30分程して大きな豪邸の前で止まった。
自動で開く門をパスして敷地内になれた様子で入っていく。
俺の部屋の倍以上あるだろう車庫に車を入れエンジンを切った。
樋野さんは何も言わずに車から降り、助手席側に周りドアを開けた。
「降りて下さい。もう、歩けるでしょう?」
俺の下半身を見てそう言った。
恥ずかしさで耳が熱くなった。
「ここ何処だよ」
「僕の家です」
言うと俺の腕を掴んで車庫から豪邸内に通じているドアを開け中に入って行った。
家の中は目がチカチカするような装飾品で一杯だった。
使用人と思われる人間何人かとすれ違うと皆、折り目正しく礼をした。
冗談やドッキリの類ではなく、本当にここは樋野さんの家のようだった。
車庫からどう来たのか分からないが、何処かの部屋に俺は押し込まれ、後から入って来た樋野さんは部屋の鍵を掛け誰も入れないようにした。
……いや、俺が逃げられないようにしたのかも知れない。
急に不安になってきた。
自分がこの後、どういう目にあうのか分からなくて。
樋野さんはゆっくりと俺の方に近寄って来た。
背中越しに樋野さんの気配を感じて身体を振るわせた。
身を硬くしていると樋野さんは俺を追い越して部屋の奥に消えた。
何かをされるのではないかと緊張していた為、何事も無く通り過ぎた樋野さんを見て俺は身体の力が抜けその場に座り込んでしまった。
改めて部屋を見てみると見覚えのある光景が広がっていた。
美術室をそっくりそのまま持ってきたような部屋……。
ここは樋野さんのアトリエなんだろうか?
ガタガタと物音をさせた後、何かを持って樋野さんは俺に近付いて来た。
見れば二冊スケッチブックを持っていた。
見覚えのある方のスケッチブックが俺に向かって差し出された。
「見て下さい」
言われた通り開いて中を見た。
そこには俺に良く似た綺麗な人間が描かれていた。
「これは?」
「伊部くん貴方です」
「俺は――」
こんなに綺麗ではない――とスケッチブックから目を逸らした。
「きみが自分をどう思っているのか、どう見えているのかは分かりません。でも、僕にはきみがこう見えています」
優しい心は世界を優しく見せる。
綺麗な心は人を綺麗に見せる。
「こんなのは俺じゃない!!」
「僕を否定するんですか?」
静かにそう問われ、俺は黙ってしまった。
「きみが否定しようと認めまいとここに描かれているのは間違いなく伊部くんです。きみ風に言うなら僕の世界の伊部くんですが……。それを否定するのは僕を否定するのと同じです。それでもきみは違うと言うのですか?」
眼鏡の奥の瞳は鋭く俺を突き刺し俺から言葉を奪う。
息をするのさえ苦しかった。
「俺はそんなに綺麗じゃない!」
やっとの思いでそれだけを搾り出した。
「そうですか?僕にはきみがとても綺麗に見えます。キラキラしてて眩しく見えます」
微かに微笑んだ。
許すと言われたような気がして泣きたい気持ちになった。
「それは……アンタがそう見ているだけで本当の俺は汚いんだよ!」
「その言葉そっくりそのまま返します」
思いもよらない事を言われ俺は怯んだ。
「何?」
樋野さんは溜息を吐くと座り込んでいる俺に合わせるように俺の前に来て座った。
「裏庭できみの告白を聞いて、僕も同じ事を思いました。僕はきみが思っているような綺麗な人間では有りません。悟りをひらいた徳の高い法師でもなければ、聖人君子でも何でも有りません。ただの男です。
喜怒哀楽もあれば欲だってある。神聖視されても困ります」
そう言って、俺に差し出さずに持っていたもう一冊のスケッチブックが差し出された。
中を見ると俺に良く似た人間が艶かしい表情で描かれていた。
次のページも次のページもめくってもめくっても見た事も無いような艶っぽい表情をした俺が描かれていた。
いや、俺ではない。
俺はこんな表情はしない! こんな俺は見た事無い!
「これは……」
誰だと――問い掛ける言葉を樋野さんは遮るかのように言葉を発した。
「きみは自分が汚いと言いましたね。それは手を汚して僕を歪んだ世界の住人にしたからですか? それなら――」
僕だって汚い人間だという事になる――樋野さんは自分を嘲り笑うように言った。
「手なら僕だって汚しましたよ」
スケッチブックに描かれた艶かしい表情をした人間をなぞる指にいやらしさを感じるのは俺がそう見ているだけなんだろうか?
ドキドキと落ち着かない気持ちになる。
「きみを思い。きみの名を呼びながら何度も何度も……手を汚しました」
僕はきみが好きですよ――怖いくらい真剣な眼差しで言われ、俺は石になったかのように固まってしまった。
だから不意に近付いて来た樋野さんの顔を避ける事も出来ずにキスを受け止めてしまった。
驚いていた所為で俺は目を閉じる事も出来ずに目を見開いたままになっていた。
触れるだけのキスを何度かすると樋野さんは顔を離した。
終わったのだとホッと息を吐いた時だった。
樋野さんは掛けていた眼鏡を左手でそっと外し俺を見た。
何故か怖くなって俺は身体を仰け反らした。
が、樋野さんの右腕は俺の後頭部を髪ごと掴み自分の方へ引き寄せた。
何かを叫ぼうとして口を開いたが、樋野さんの唇によってそれは塞がれてしまった。
先程の触れるだけのキスとは違って喰い尽くされそうなキス。
舌を絡め取られ息も出来ない。
苦しくて樋野さんの胸倉を何度も叩きもがくが、足りないと言わんばかりに樋野さんは俺の唇を吸う。
頭がポゥとして来て段々訳が分からなくなり、樋野さんが俺の舌を吸っているのか俺が樋野さんの舌を吸っているのかの判断さえつかなくなっていた。
気が付けば樋野さんの唇は俺から離れていた。
俺は暫く放心状態でいた。
「きみの見ていた僕と現実の僕は随分と違ったでしょ? 多分伊部くんよりも僕の方が汚いですよ。がっかりしたでしょ?」
樋野さんは寂しそうに笑った。
「こんな僕は嫌いですか?」
問われて即答する事は出来なかった。
俺はがっかりなどしていなかったが、キスの所為なのか色々な事があった所為か、バカになってて自分の気持ちがよく分からなかった。
正直な気持ちを伝えると、急ぎすぎましたね――と言って何時もの微笑を浮かべた。
「これを受け取って下さい」
差し出されたのは後から差し出された方のスケッチブックだった。
「カードや花を贈る事も考えたのですがコレが1番いいですね」
「え? 何で?」
樋野さんの言葉の意味が分からずキョトンとしていると、樋野さんは悪戯っぽく笑った。
「今日はバレンタインです。欲の為に走り回る日でしょ? だから僕の欲が詰まったコレを贈ります。コレを見る度に思い出して下さい。僕がただの男だという事を……」
「やっぱりコレは俺なんだ?」
「そうですよ僕の歪んだ世界の伊部くんです」
何時もと変わらない優しい微笑みだった。
「僕の告白の答えとバレンタインのお礼はホワイトデーでいいですよ」
勿論プレゼントは三倍返しでお願いしますね――悪戯っぽく言う。
「俺、貧乏学生だから大した物返せないぜ」
うんざりした顔で言うと。
「ああ、キャンディーとかマシュマロとかそんな子供騙しなものは要りませんよ」
妖しく微笑む樋野さんを見て、何を言わんとしているか分ってしまった。
多分俺は、今日から一ヶ月間悩む事になるに違いない。
告白の答えにではなくプレゼントのお返しの内容について……。
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