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第6話

 彼を歪んだ世界の住人にしてしまった後ろめたさから、美術室を避けた。  彼に合わないように講義を受けたら速攻で帰り、遠くから彼の声が聞こえようものなら身を隠しやり過ごした。  逃げて、逃げて……。  だが、結局バレンタイン当日に捕まってしまった。  本館前で女達に捕まっている所を嗅ぎ付け、樋野さんはやって来た。  モデルをすると約束したくせに勝手に破って怒っているだろうと思っていたが、彼は何時もと変わらない笑顔で「こんにちは」と言った。  樋野さんは女達が捌けるまで側に立って待っていた。  まるで逃げ出さないように監視されているようだった。  全ての人間にチョコレートは要らないと断りまくった。  ブツブツ文句を言うヤツも何人か居たが、取り合わずに追い返した。  女達が全員居なくなってから、間髪入れずに直球で訊いた。 「僕を避けていましたね」  俺は彼の顔を見る事も出来ずに。 「気の所為だろ」  と、うすら惚けて見せた。  だがそんな言葉は樋野さんは聞き流した。 「モデルをやるのが面倒になったのなら言ってくれればいいのに……」  眉を八の字にして困ったような申し訳ないような顔をした。  俺は何も言う事が出来ずに押し黙ってしまった。  モデルをするのが面倒でないと言えば嘘になる。  だが、彼を避けていたのはそんな事ではない。  毎晩彼の眼差しを思い出しては自分の手を汚していたのだ。  その気まずさから避けていたのだ。  それに……彼の眼差しを思い出しながら手を汚していた所為で、身体がそういう風になってしまっていた。  彼に見られていると思っただけで身体が熱くなってしまう。  実際に見られたら……。  その視線に意味などなくても自分で意味を持たせ、身体を熱くさせてしまうに違いない。  そうなったら俺は上手く誤魔化す自身などない。  だから逃げていたなどとは言えなかった。  アンタに見られたくないと言えば、鈍い彼の事だからきっと誤解するに決まっている。  だから……何も言えなかった。  ただ黙って時が解決してくれるのを待った。  不意に冷たい風が頬を撫でた。  樋野さんは身を震わせ縮こまっている俺に気を使って巻いていたマフラーを掛けてくれようとしたのに俺はその手を払いのけてしまった。  眼鏡の奥で驚き見開かれた目と目が合い、あからさまに目を逸らした。 「やはり僕に見られたくなくって避けていたんですね」  突然確信に触れられ俺は動揺した。 「なんで知っているんだ……」  つい本心をこぼしてしまった。  しまったと思った時は遅かった。  眼鏡の奥の瞳を細め。 「ああ、やっぱり」  と、呟いた。  やっぱり?  バレていたのだろうか?  俺の心が汚い事を。  歪んだ世界の住人にしてしまった事を。  何度も何度も樋野さんを貶めるような真似をしてしまった事を。  後ろめたさと恥ずかしさとばれているかもしれないという怖さから反射的に走っていた。  樋野さんから少しでも距離を置きたくて。  裏庭を突っ切って裏門から出ようと思った。  何時の日か同様にそのまま家に帰ってしまおうと思った。  だが、裏庭を突っ切る前に何者かに腕を掴まれた。  力強く引っ張られ俺は体制を崩し腕を掴んでいる人物と共に裏庭の草むらに倒れた。 「足が速いですね」  息を少しだけ乱して樋野さんは言った。  俺は小中高と学年で1番2番くらいに足は速かった。  その俺に追いつくアンタは何者だよと思った。 「あんたずるいぞ!鈍くさそうな見てくれのくせにこんなに足が速いなんて・・・」 「期待に添えなくてすみません。国体に出るくらいには足が速いんですよ、僕」  何時もと同じに柔らかく笑った。  倒れた衝撃で気付かなかったが、俺は今自分がとんでもない状態だという事にようやく気が付いた。  樋野さんの右足は俺の足と足の間にはまった状態で俺の上に居る。  つまり押し倒されている状態だ。  顔と顔の距離は30cmもないかもしれない。  歪んだ世界と現実が重なる……。  急激に身体は熱を増した。  樋野さんが驚いた顔をする。  気付かれてしまった……。  身体の変化を……。  何も言わずに樋野さんはそっと俺の上から退いた。  自由になった身体を起こし、ごめんなさい――と謝った。 「何に対してごめんなんですか?」  俺は何も言えず俯いた。  距離を取りたかった。  樋野さんと出来るだけ離れたかった。  見られているだけで……。  ただそこに居るというだけで俺の身体は温度を上げてしまうから……。  樋野さんに何処かへ行って欲しくてごめんなさいの意味を偽って伝えた。 「モデルの約束破って……」 「人と話をする時は目を見て話すものですよ」  両手で俺の顔を挟み無理矢理自分の方へ向かせた。  目と目が合う。  顔は笑っているのに眼鏡の奥の瞳は笑っていないように見える。  いや、実際は笑っているのかもしれない。  ただ俺がそう見ているだけで……。  分からない……。  分からない……。  樋野さんの瞳は俺を捕らえて放さない。  まるで全てを見透かされているような錯覚を覚える。  追い詰めないで欲しい……。  でないと溢れてしまう。  汚い心が……。 「何に対してごめんなさいなんですか?」  優しい問いかけが俺には酷く恐ろしいものに感じられた。  ごめんなさい。  ごめんなさい。  繰り返し繰り返し謝る。  もう、二度としないから暴かないでくれ!  汚い心を…歪んだ世界を……。 「言えない事をしたのですか?」  樋野さんの瞳は俺を捕らえて放さない。  逃げ出したいのに逃げる事も出来ない。  ごめんなさい――消え入りそうな声で謝る。  俺はアンタを歪んだ世界に落としました――と告白をする。  手を汚し、樋野さんを汚しましたと懺悔する。  樋野さんは溜息を吐き目を伏せた。  そして再び開かれた瞳は怖いくらい冷たいものだった。  俺は血の気が一気に下がった。 「きみは僕をなんだと思っているんですか?」  怒っている。  怒りとは無縁の人だと思っていただけに怖かった。 「来て下さい」  樋野さんは俺の腕を掴み、力一杯引っ張った。  だが、立ち上がれば身体の変化があからさまに見て取れるので腰を下ろしたまま動く事を拒んだ。  するとその事を悟ったのか、樋野さんは俺を動かすのを諦めたのか、掴んでいた腕を放した。  そして俺の背中と膝の裏に手を回し姫さん抱っこで持ち上げた。 「樋野さん!!」 「歩き辛いんでしょ?」  そう言ってズンズンと歩き始めた。  俺は自分の置かれている状況が分からずなすがままになっていた。  暫くすると裏庭の脇にある駐車場に出た。  青い車の助手席に詰め込まれ、運転席側に回る樋野さんの姿をただ黙って見つめた。  顔に何時もの微笑みは無い。  本当に怒らせてしまったのだと後悔をした。

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