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第5話
止まっているように感じられた時間はちゃんと流れていたらしい。
長かったのか短かったのか分からないモデルの時間は終わった。
いや、短かっただろう。
俺の辛そうな表情を見て樋野さんが早めに切り上げてくれたのだから。
大丈夫ですか?――と何度も訊かれた。
大丈夫です――とは言ったものの続けてくれとは言えなかった。
俺の心中を察してくれたのだろう。
今日はコレくらいでやめておきましょう――と言って片付けを始めた。
退かしていた机や椅子をもとあっただろう場所に戻し、使ったものを戻して……。
「帰りましょう」
すっかり帰り支度を整えた樋野さんは俺に優しく微笑みながら言った。
俺はああ――と返事をして樋野さんと一緒に美術室を出た。
人気の無くなった廊下を2人並んで歩いた。
何時もならどうでもいいような話題が幾らでも出て来て沈黙と言う重い空気を和ませてくれるのに今日に限ってどうでもいい話題が出て来ず黙したまま歩いた。
「あと1週間でバレンタインですね」
沈黙を破ったのは樋野さんだった。
「何? 急に?」
「チョコレートは嫌いですか?」
「いや、好きだけど、なんでそんな事訊くんだよ」
まさか、くれるなんて言うんじゃないだろうな?
「先日バレンタインの事を話したでしょ?その時あまりバレンタインを快く思っていないようでしたので確認を取りたいと思いまして……」
確認?――訝しげに訊くと樋野さんはやはり優しく微笑んだ。
「人に頼まれたんです。伊部くんはチョコが好きかどうか調べて欲しいと」
からかっているのか、本心から思っているのかよく分からない悪戯っぽい笑みを浮かべ、自分では気が付いていないようですけど結構もててるんですよ伊部くんは――と言った。
結構もてているのはあんたの方だろうと思った。
人の良さそうな笑顔。裏表の無い性格。柔らかい物腰。人を安心させる雰囲気を持ったアンタの周りには何時だって人が絶えないじゃないか……。
それに綺麗な世界を持っているアンタに俺だって惹かれているんだ。
惹かれている!?
思った瞬間、何かにぶつかった!
「痛ぇ!!」
見れば目の前に体格の良い大きな男が崩した体制を直していた。
どうやら中央階段と廊下の合流地点で俺は人とぶつかってしまったようだった。
「ぼさっとしてんな! 気を付けろ!!」
自分の不注意を棚に上げて男は俺に怒鳴った。
カチンときた俺は余程言ってやろうかと口を開いたが、言葉を発する前に樋野さんに手で制された。
庇う様に樋野さんは俺の前に立ちはだかった。
「すみません。気を付けます」
何故か樋野さんは俺の代わりに謝ったのだ。
男は樋野さんの言葉を聞くと一瞥くれてその場を立ち去った。
男にも樋野さんにも納得いかない俺は樋野さんに食って掛かった。
「何謝ってんだよ!!」
「彼はイラ付いているようでした」
「だからなんだよ!」
「人がイラ付いている時は身体の調子が良くないか精神的にきつい事があった可能性があります。そんな人を追い詰めたら可愛そうでしょ?」
この人は。
「暴言を吐かれてもこの野郎と思う前に大丈夫かと心配してあげた方がお互いの精神に良いと思うのですよ僕は」
なんて……。
「差し出釜しい事をしました。すみません」
優しい人なんだろう。
やっと分かった。
この人の世界が綺麗な訳を。
この人が優しいから……。
樋野さんの心が優しいから……。
世界が優しく見えるのだ。
世界を綺麗に見せるのは心なんだと気付いた。
気付いたとたん俺はこの人の傍に立っていられなくなった。
自分が酷く汚く、汚れているような気がして……。
惨めで恥ずかしくてその場から……。
樋野さんから逃げるように走って帰った。
無我夢中で走り、息を切らせ帰った。
靴を脱ぎ捨て2階にある自分の部屋に逃げ込み、倒れ込む様にベッドに横になる。
閉じていた目を開くと切り取られた綺麗な世界があった。
誰かが言っていた言葉を思い出す。
歴史は変える事は出来ないけど、歴史の意味を変える事は出来る――。
人を愛すると世界が変わる――。
どちらも同じ事。
思い方1つ……。
考え方1つで世界は変わるのだ。
優しい心は世界を優しく見せ、綺麗にする。
絵を見る。
綺麗な世界だ。
妹の言葉が頭を過ぎった。
お兄ちゃん……まるで絵に恋でもしているみたいだね――。
絵になんか恋をするわけが無い。
恋をするなら綺麗な世界を見る事の出来る彼の心にだ。
彼自身に……。
不意に彼の視線を思い出す。
何時もの穏やかな眼差しとは違い射抜くような眼差し。
怖ささえ覚える視線。
喰われる様な錯覚さえ覚える。
身体が震えた。
恐怖からではなく熱さで……。
本当は何時もと変わらない優しい眼差しだったのかもしれない。
それを特別なものに変えるのは自分。
汚く汚れた心が世界を歪ませるのだ。
ただ見ていただけなのに意味を持たせるのは自分。
汚い心が望むように見せているだけ。
望むものを望むように見て身体は熱さを増す。
綺麗な世界の住人を汚れた世界に落とすため俺は自分の手を汚した。
目を逸らしたくなる程汚れた白さで……。
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