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第4話
翌日大学に行くと本館と別館を結ぶ廊下で気の抜けた声で名前を呼ばれた。
見なくても声の主は分かった。
優しく気の抜けたマッタリとした口調で俺を伊部くんと呼ぶのはあの人に違いない。
確信を持って振り返ると思っていた通りの人物が小走りで近寄って来た。
俺の前まで来ると足を止めおはよう御座います――と微笑んだ。
「もう、昼過ぎだぜ」
「はい。でも、今日初めてお目にかかったのでおはようです」
眼鏡の奥の細い目を寄り一層細めて微笑んだ。
「課題は出来ましたか?」
「もう提出してきたよ」
そう答えると樋野さんはホッと胸を撫で下ろしたようだった。
「それは良かった。それでは伊部くんはお暇ですか?」
「は?」
「いえ、忙しいようでしたらいいんですけど……」
「暇だったら?」
「ちょっとお願いしたい事がありまして」
言いにくい頼み事なんだろうか?
樋野さんは恥ずかしそうに人差し指で顔を掻いている。
「人物を描きたいのでモデル頼まれてくれませんか?」
「え!!」
何で俺が!!――と言おうとしたが絵を貰っている事や課題の提出期限を延ばしてもらった事を思い出し言えなかった。
「駄目ですかねぇ」
申し訳なさそうに尋ねる樋野さんに対し迷惑ですといった顔を隠していいですよと答えた。
「今日は講義は何時までですか?」
「今日は5限までだから……」
「分かりました。5限の講義が終わったら美術室に来て下さい。お待ちしています」
それでは――と、軽く頭を下げて樋野さんは行ってしまった。
5限の講義を終え、美術室に向かう事にした。
正直足取りは重かった。
人を描く事はあっても人に描かれるのに慣れていないから、ちょっと気が重い。
そして恥ずかしい。
やっぱり断ろうか。どうしようかとウダウダ考えているうちに美術室に着いてしまった。
もしも樋野さんが居なかったらいいなぁ……等とこの期に及んで諦めの悪い事を考えながらドアをそっと開けた。
樋野さんは黒板の前にある教卓に突っ伏して寝ていた。
居なければ『居なかったので』と理由を付けて帰れたのに、居るんだもんな。
仕方ないと腹を括り樋野さんに近寄った。
俺の気配に気付いたのか樋野さんは閉じていた目を開いた。
ムクリと身体を起こして何時もの柔らかい笑顔で伊部くん――と、俺を呼んだ。
何時もと同じ表情のはずなのに変な違和感を感じた。
何だろうと思って樋野さんをマジマジと見ていると何ですか?――と言いながら樋野さんは机の上に置いていた眼鏡をかけた。
「あ!!」
「はい!?」
何か変だと感じたのは、眼鏡をかけていなかったからか……。
眼鏡をかけた姿しか見た事がなかったから変な感じがした。
多分眼鏡が無い方が男前なんだろうけど変な感じを受けた。
「どうかしたんですか?」
「なんでもないよ」
不審そうに俺を覗き込む樋野さんに顔の前で手を左右に振り否定した。
「そうですか、では始めましょう」
ニッコリと微笑まれて嫌だと言い出す事も出来ず俺は観念した。
既に机や椅子が退かされ出来たスペースの中央に椅子が置かれていた。
樋野さんに促され俺はその椅子に座った。
「ポーズは好きでいいですよ」
そう言われて俺は樋野さんと正面から向き合うのだけは避けようと、樋野さんに対して斜めに座った。
「楽にしてていいですからね。でも動かないで下さい」
「分かっているよ!」
鬱陶しいと言わんばかりに不機嫌そうな返事を返してしまった。
樋野さんはスイマセン――と眉毛を八の字に下げて謝った。
誤解させてしまったかもしれない。
俺は別に怒っているわけでも機嫌が悪いわけでもないのだ。
ただ慣れない事をするため緊張しているのと恥ずかしいのを隠そうとしただけなのだ。
その事を弁解する余裕は今の俺にはなかった。
悪い事したな――と、思っているうちに樋野さんは描き始めているようだった。
シャッシャッと紙の上に何かを走らせる音がする。
見なくても描いているのが分かる。
シャッシャッ。
シャッシャッ。
美術室には紙の上を鉛筆が走る音だけが響く。
シャッシャッ……。
シャッシャッ……。
会話はない。
俺の見ている方向には時計がなく時間がわからない。
描き始めてから大して時間は経っていないのだろうか?
それとも結構経ったのだろうか?
時間を気にするって事は黙って座っているだけの事に苦痛を感じ始めたと言う事だろうか?
何時もは描く側だからモデルをする立場の人間の大変さなど分からなかったが、今日自分にもその大変さが分かった。
モデルの人は大変だなぁ、と変な事に感心した。
何気なく樋野さんを盗み見た。
スケッチブックに向かって鉛筆を走らせている姿は真剣そのものだった。
何時も見ているヘラヘラとした人の良い笑顔からは想像しにくい顔。
絵を描く時、この人はこんな顔をするのか。
今、アンタには世界はどういう風に写ってるんだ?
やはり綺麗に見えているのだろうか?
俺は?
俺も綺麗に見えているのだろうか?
そんなバカな事を思っていた時だった。
不意に……。
樋野さんの視線が俺に向けられた。
何時もは開けているのか閉じているのか分からない眼鏡の奥の瞳はキツク開かれていた。
真剣な眼差し。
俺は得体の知れない怖さを感じた。
別に睨まれているわけでも何でもないのに……。
ただ、見られているだけなのに……。
喰われてしまう様な錯覚に陥った。
酷く落ち着かない気持ちになり、あからさまに視線を逸らし、もと見ていた場所を見た。
ドキドキと鼓動が早まるのを感じた。
座っているだけなのに酷く苦痛に感じる。
後、どれ位すればこの時間は終わるだろうか?
1時間?
30分?
10分?
時間の流れを失っている俺には1分だろうが1時間だろうが同じ事の様に思える。
早く終われ……。
早く終わってくれと心の中で何度も何度も願った。
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