1 / 62

第1話

広瀬の前には、研究所の『白猫』がいる。白衣でいつも猫なで声で話をするので、心の中でそんなあだ名をつけたのだ。本名は知らない。 彼は、チェックしていたサブシステムのタブレットを広瀬に返してくれた。 一緒に、紙の書類も出してきて、机の上に置かれる。 実証実験の延長についてというタイトルだった。 「この実験、研究所内で好評でね。延長の申請を出したら予算が通った。今度は人数を拡大する。今年まで使ってた人は、半分はやめてもらって、半分は残ってもらう」と『白猫』は説明してくれた。 「広瀬君には、継続して参加してもらいたいんだけど、どうかな?」 書類には、彼の言葉の内容が書かれている。延長は2年間だ。 広瀬はうなずいた。「ぜひ」と答える。 「じゃあ、ここに、サインと印鑑を押して」と『白猫』は言った。 「今日、印鑑持っていませんが」 「ああ、いいよ。後で郵送して。先にスキャンしてファイルを送ってもらえると助かる」と答えられる。 「はい」と広瀬は言った。 『白猫』はにこにこ笑っている。「広瀬君は延長してくれてよかった。ほとんど使ってない人には頼まなかったんだけど、上手によく使ってる人でも、延長は嫌だって人がいてね。理由を聞いたら、3年間だっていうから我慢して使ってたんだけど、周りもうるさいし、そんなに便利じゃなかったって言われて、かなりへこんでたんだ」 広瀬君にももうやめますって言われたらどうしようと思ってたんだ、と続けている。 このタブレット端末を広瀬は気に入っていた。そうでない人がいるのだ。なんとなく、こういったものを使いこなしながらも実は好きじゃない人間の方が、人としては高級な気もした。だけど、後2年は使えるのだと思うと素直にうれしかった。 タブレットを使いだしてもう、3年目になる。本来なら実証実験はこの春で終了のはずで、今日は返却手続きの話をするのだろうと思ってきたのだ。だから、なおさらうれしい。 「次回は、新しい機種を用意する。入っているデータは全部移行するね」と『白猫』は言った。 この面談の日の終わりに、珍しく『白猫』は広瀬を一階のエントランスまで送ってくれた。 何か用事があったのかもしれないが、一番最初に会ったとき以来だ。 「コート、ここで着た方がいいよ。外はすごく寒いから」と彼は言った。そして、コートを着るのを助けるために、勝手に広瀬のカバンを持った。 「いいコートだね」カバンを戻してくれながら『白猫』は広瀬を眺めて言った。「暖かそうだ。値段はかなりしそうだけど、どこで買ったの?」 広瀬が回答をためらうと、店のことは追求してこなかった。 「そういえば、広瀬君、この前、誕生日だったね。そのコートは恋人からのなのかな?うらやましいな。君にとても似合っているよ」と広瀬に反論もさせずにそう言っていた。

ともだちにシェアしよう!