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年上の男を好きになったのは恋愛というものに淡い憧れがあって。
自分が少しでも背伸びをしたら、この手が届くものだと思ったからなのかもしれない。
だけど、自分はまだまだ子どもで。
リスクを背負ってまで相手をしたいと思ってもらえるような存在でもなくて。
だから見向きもされなかった。
そう自分に言い聞かせて、忘れようとしている恋がある。
空音旋律
「颯馬、今日どうする?」
授業が終わって校舎を出ると必ずする会話。
「どーしよっかなぁ」
エントランスの階段を下りながら、砂原颯馬は頭の後ろで腕を組んだ。
太陽はまだ高い位置にあり、毎日のことながらこのまま真っ直ぐ家に帰るのはもったいない気がする。
だからといってどうしても寄りたい場所や、絶対にやりたいことがあるわけでもなく、下校時に友人と同じような会話をする毎日。
これが日常で、これが普通で、多分、これに慣れていかなければならないのだろう。
「どっか寄るー?」
先を歩くクラスメイトの高佐勇大が眉を上げて振り返る。
うーん、と唸りながら颯馬は首を傾げた。
「……寄りたいような、めんどいような」
うだうだ。
うだうだ、うだうだ。
教室から校舎の外まで来ても決まらない放課後の予定。
いい加減うんざりしてくるのだが、勇大はまったく気にも留めていないようで、のんびりうだうだ同じ会話を続けている。きっと彼はこんな毎日に慣れているのだろう。
だが、颯馬は慣れていない。こういうやり取りにいつも戸惑ってしまう。
別にごく一般的な日常に慣れていないというわけではない。ただ、颯馬にとっての日常は「今」ではなく、「過去」だから。
颯馬にとっての「当たり前の放課後」は、ぽつんと取り残されてしまっているから。
ぽっかりと心に穴が空いているように、抜け落ちてしまっているから。
「んー、じゃあちょっとコンビニ寄ってもいい?」
歩道に降り立った勇大が返事をする前にコンビニエンスストアへ向かって歩き出す。その背中を追いながら、颯馬は声をかけた。
「何買うの?」
「喉渇いたし、何かテキトーに。颯馬は何か買う?」
「んー……、いっかな、別に」
おう、と返事をした勇大が自動ドアから店内へ入っていった。颯馬は歩道のガードレールに寄りかかって待つことにする。
校舎から一番近いコンビニエンスストアはあまり好きではない。授業前も、昼休みも、放課後も生徒たちで混雑しているから。
店内には同じ年頃の男女がごった返しているし、レジにも長い列ができている。ペットボトル一本買うにも十分は確実にかかる。
そういうものは面倒でたまらない。それならば少し離れた店に行って、買い物はゆっくりしたい。
腰程の高さのガードレールに尻を乗せて、颯馬は小さく息を吐いた。
ゴールデンウィークが終わって間もなく。高校を卒業して専門学校に入学したばかり。
五月病などという言葉を耳にする機会も多いが、颯馬がこんなにも「日常」というものに戸惑いを感じているのは、決して新しい環境に馴染めないという理由ではない、と思っている。
原因は自分の中ではっきりとわかっている。
どうしようもない程、明確に。
「……」
颯馬はおもむろに尻ポケットから携帯電話を取り出す。画面を見て、緩く長い溜め息を吐いた。
こんなにも毎日が楽しくないのは。
こんなにも憂鬱なのは。
ここに、いないから。
会えないから。
それだけ。
「……電話とかさ」
ぽつりと呟く。
かかってくる筈もない。メッセージも来る筈もない。
颯馬の連絡先を相手は知らないし、颯馬も相手の連絡先など知らない。
いや、本気で連絡をしようと思えば方法はあるのだろうが、たとえば家の固定電話に連絡をする程の用事なのかと問われたら、そうだとは言えない。
同窓会の報せだとか、就職や結婚の報告だとか、そういう類の連絡でなくてはいけないような気がするのだ。
ただ話したかったからとか、声が聞きたかったなどという理由で、そんな最終手段を取ってしまったらいけないと思う。
そうやって怖気づいて、それでも頭の中には同じ時間を過ごした思い出ばかりが詰まっていて、手軽に連絡ができない現状に悔しくなる。
だけど、これはきっと仕方のないことだ。
諦めなくてはいけないし、忘れなくてはいけない。
すぐに会いに行ける「日常」は終わってしまった。卒業と同時に消えてしまったのだから。
どんな手段でも連絡を取って声を聞く勇気もない自分には、忘れていくことしかきっとできないだろうから。
携帯電話から顔を上げて店内を見る。レジの列の最後尾に、ようやく勇大が辿り着いたところだ。戻ってくるまでにまだ時間がかかるだろう。
もう一度、携帯電話に視線を落とす。
今日の日付と時刻が表示されているだけの画面が、不意に着信画面に切り替わった。
驚くと同時に手の中で電話が震える。
画面に表示された名前を見て、颯馬は小さく目を見開いた。
――後輩だ。
「稔、どした?」
通話状態にして、颯馬は携帯電話を耳に押し当てる。懐かしい声が耳元で響いた。
『あ、先輩? お久しぶりですー!』
稔はひとつ下の後輩だ。放課後、いつも遊んでいたうちのひとり。
「久しぶり。っつっても何、一か月半とか? その位?」
『十分久しぶりですよー、元気っすか、元気っすか!?』
稔はいつでもテンションが高い。それは颯馬が卒業してからも変わっていないようで、眉を寄せて苦笑しつつ口を開いた。
「元気だよ。そっちは?」
『はいもういつも通りっすー』
「授業は?」
『終わりました。今、いつものとこで皆で騒いでて……、っって、痛ぇよ! 今颯馬先輩と話してるんだから邪魔すんなボケ!』
電話の向こうから「ぎゃあ」というふざけ半分の悲鳴とたくさんの笑い声が聞こえた。
――いつものところで皆で騒いでて。
その言葉に心臓が小さく跳ねる。
いつものところ。その場所に、三月までは颯馬の居場所があった。
『それでですね、先輩たち皆どうしてるかなーって話になって、それで突撃生電話!』
はは、と笑って颯馬はガードレールに座り直した。
「エイジには?」
『もう電話しました! 何か今日は昼から麻雀やってるとか、不健康なこと言ってましたよ』
「マツは?」
『はいはいわかったから後でな、って言われて電話切られました』
「亮介は?」
『バイト中、だそうですー』
かつての仲間たちはそれぞれ楽しく過ごしているらしい。もちろん、颯馬からも連絡は取っているので何となくだが様子は知っている。エイジが麻雀にハマっているのは初耳だったが。
『颯馬先輩は? 今何やってんすか?』
「あー……、今授業終わったとこ」
『授業終わったらどうするんですか?』
「さぁ、どうしよっかなぁ」
『暇人ですね?』
「うるせ。一応バイトやったりいろいろあるよ、こっちだって。今日はたまたま休みなだけ」
少しずつ高校時代のノリが戻ってくる。
沈みかけていた心がゆっくりと浮上を始めたその時、ひとつの言葉が颯馬の胸に突き刺さった。
『あ、シロやんいますよ。話しますか?』
「――……え?」
目を丸くして、颯馬は動きを止めた。
シロやん。
その言葉に、呼吸すら止まりそうになる。
『話しますよね? 今変わりますー』
勝手に話を進めた稔の声が、ふと遠くなる。
シロやーん、電話ー、颯馬先輩ー。
単語だけを並べて電話を変われと伝える稔。その声の後、もっと遠くから響く声。
シロやんって呼ぶなって何度言えばわかるんだよ、おまえ。
苦笑混じりの柔らかな低音。
電話を握る指先が微かに震える。
足元、目の前、空、後ろの車道。ゆらゆらと視線を巡らせる。どうしていいのかわからない。
徐々に強くなっていく心臓の音がうるさい。
どくん、どくん、という音に気を取られていると、耳元でごそごそという音が響く。
それから。
『砂原? 久しぶり』
聞きたい声が今、ようやく聞こえた。
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