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 坂城和孝。  それは、颯馬が通っていた高校の音楽教師の名前だ。  颯馬の記憶が間違っていなければ、年齢は今年三十になる。  新学期が始まり、恒例の自己紹介の時に黒板に書かれた名前を見た生徒たちは大抵が坂城を「さかき」とは読めずに「さかしろ」と言う。  そこから生まれたシロやんというあだ名で、生徒たちは彼を呼んだ。  年齢は一回り程離れていたが、気さくな性格のため、彼を慕う生徒は多い。女子でも、男子でも。  悪ノリしても笑って受け入れてくれるため、特に男子からは兄のように慕われていた。  中学高校一貫教育の学校で、部活動も中高合同でそれなりに盛んに行われている。  音楽に関していえば、全国大会などに入賞する程の実力の吹奏楽部があるのだが、その顧問は中学の音楽教師が担当している。  シロやんが顧問を務めているのは、音楽史同好会だった。部活として認められるには人数も足りないし、活動内容が曖昧だ。  何しろそれは、放課後にシロやんの元に集って遊びたい生徒が立ち上げた、形だけの同好会だからだ。  颯馬もこの同好会に属していた。  授業が終われば音楽室へ走り、エイジ、マツ、亮介、稔、それから圭一にミキオに由利っちたちと音楽を聞きながら騒ぐだけの活動。  一応シロやんも形だけは音楽史同好会らしいことをしなくては、と最後にさらりとクラシック音楽や作曲家の歴史について話してくれるが、話している本人も聞いている生徒たちも何となくで、本当に、生徒も顧問も適当に過ごしていたいだけの集まりだった。  エイジ、マツ、亮介、颯馬が卒業した今、新たな生徒が同好会に加わっているだろう。  坂城和孝という教師は本当に話しやすくて、くだらない相談から真剣な悩みまで、同好会のメンバーたちは彼を頼っていた。  だが、颯馬が坂城の元に通っていた理由は他の生徒たちとは違う。  もちろん彼は話しやすいし、皆で騒いだり遊んだりするのは楽しい。だが、それ以上の理由があった。  多くの生徒に慕われている坂城。  その「慕う」という意味合いが、颯馬の中では他の生徒たちと違ったのだ。 「……あ、えっと、久しぶり」  声を出すまでに数秒かかった。しかもほんの少し上擦った声になってしまった。 『元気?』 「うん、それなりに何とか元気」 『……。……何かやだなー』  電話の向こうで坂城が笑い出した。笑われた意味がわからず、颯馬は何がと聞き返す。 『だってさーおまえ、ちょっと前まではここでぎゃーすか騒ぎまくってたくせに、卒業したら落ち着いた喋り方しやがってさー。大人ぶってんじゃねーよ未成年』 「べ、別に何も変わってないし。授業終わりでちょっと眠いだけだし。つか先生は相変わらずテキトーだね」 『そ?』 「……うん。相変わらずで、何か安心」  坂城を慕う生徒がシロやんと呼ぶ中、颯馬はそう呼ばなかった。ずっと先生と呼んできた。  特筆するような理由は特にないのだが、坂城は「シロやんって呼ぶな」というのが口癖だったし、それに。  好きな相手をシロやんなどというふざけたあだ名で呼びたくなかったのだと思う。 「今、そっち人数どのくらい?」 『……んー、……七人、かな』 「全員で?」 『いや、来てないの合わせたら九人』 「もうちょっと集まれば部として申請できるじゃん」 『やだよ、めんどくせぇ。俺は同好会のままでいーの。教師は何かしらの顧問にならなきゃいけないってのは鬼だよな。うち、帰宅部あるのにさ。何で教師は帰宅部ないの?』 「でも楽しかったよ、俺。放課後音楽室行くの」 『そ? それならよかった』  くすくすと笑いながら、颯馬は遠い目をした。  懐かしいな。ほんの少し前までは、それが日常だったのに。  会いたくなれば毎日会えて、放課後は遅くまで話ができて。  それなのに今は、会えないことが日常になっている。  ――こんな日常、嫌だ。 「……あのさぁ、先生」 『どうした?』 「……」  また話したい、とか。  連絡先教えて、とか。  卒業式の日、言えなかった言葉がたくさんある。  また話したい。  連絡先が知りたい。 「……。……何でもない」 『……砂原?』  訝しげな坂城の声が聞こえる。 『おまえ、何かあった?』 「……何もない」  何もないから、こんなにも憂鬱。  先生に会えないから、こんなにも毎日が楽しくない。 『嘘言うなって。声でわかるよ。何、どうした? 新しい学校に馴染めないとか?』 「そんなことないって。ホントに何でもないし」 『……』 「……たださぁ」 『うん?』 「……」 『……どうした?』 「……先生、会えない?」 『……』  自分の口から飛び出した言葉に、自分自身がありえない程驚いた。

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