62 / 62

17-3(最終話)

 はっとして瞼を開けると、室内は真っ暗になっていた。慌てて立ち上がり、よたよたと足を進めて部屋の明かりを点ける。眩しさと眠気で瞼を擦っていると、玄関の鍵が開く音がした。  扉が開いて、すぐさま坂城の声が聞こえてくる。 「颯馬?」 「――先生」  颯馬は廊下を駆けていって坂城に飛びついた。身体に回された坂城の手がくしゃりと髪を撫で回す。  耳元へ唇を寄せた坂城が低く聞いてきた。 「寝てた?」 「……何でわかるの?」 「下から見たら部屋真っ暗だったよ。いないのかと思って焦ったじゃねぇかよ」 「いないわけないじゃん。ここ以外にいたい場所なんかないのに」  胸に顔をうずめて大きく息を吸うと、煙草の匂いと坂城の匂いがする。今朝坂城を見送ってから、ずっと恋しくて堪らなかった。ようやく坂城の匂いに包まれて、颯馬は安堵の息を吐く。 「おかえりなさい」 「ただいま。颯馬、腹減ってる?」 「あんまり」 「今日は何してた?」 「掃除して、本読んで、音楽聴いて……」  坂城に寄り添いながら廊下を戻り、リビングへ入る。それと同時に思い出した。 「あ、電話がきた」 「……誰から?」 「亮介」  意外な名前だったのか、坂城が眉を上げる。 「亮介って、あの?」 「そう。月末またみんなで学校に行こうって。マツがまた先生に連絡するって聞いたけど、もう電話来た?」 「いや、まだだけど……、めんどくせー……」  颯馬の髪を再び撫でてから坂城がソファへ歩みより、荷物を置いた。離れてしまった坂城を追いかけ、颯馬は背中にぴたりとくっつく。平日は一日中離れていなければならないのだ。ふたりで部屋にいるときは一秒も離れていたくない。 「とりあえず颯馬、おまえは――」 「わかってるよ」  すべてを言われる前に颯馬が頷くと、坂城が振り返って目を瞬かせた。坂城のシャツの袖を掴んで颯馬は首を振る。 「もう電話に出ないよ、先生」 「……いや、俺は……」 「大丈夫だよ、ちゃんとできる。俺がそうしたいんだ。ちゃんと、先生だけのものでいたい」  静かに強く言い切ると、坂城の手が颯馬の頬に触れた。 「……颯馬」  愛おしそうな眼差しで坂城が見つめてくれる。  胸の奥にじわりとした温かさを感じながら、颯馬は笑った。 「先生?」 「ん?」 「……今度こそ、先生を名前で呼んでもいい?」 「嫌だなんて言ったことないだろ。好きに呼んでいいよ」  くしゃくしゃと髪を撫で回され、うっとりと瞼を閉じてしまいそうになる。けれどどうにか堪え、颯馬は真っ直ぐ坂城を見上げる。 「――……和孝さん」  一言口にした途端、坂城がふっと視線を逸らした。思い出したかのようにポケットから煙草を取り出し、口に咥えて火を点ける。  長い溜め息のように煙を吐く坂城を見て、颯馬は思わず笑い出してしまった。  以前に颯馬が坂城の名を呼ぼうとした時、照れていたのは颯馬の方だった。けれど今は、わかりやすく坂城が照れている。 「やっぱり先生の方がいい?」 「……うるせぇな」  咳払いをした坂城が苦笑しながら顔を寄せてくる。唇が触れ合う前に、颯馬はふわりと瞼を閉じた。  坂城以外を何も感じないように、すべてを遮断するように。

ともだちにシェアしよう!