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俺は又、夢を見ているのか?
誰が云い出したのか、痛みがあれば現実だと。頬を抓るだけでは不十分で、口を開ける。大きく息を吸い込み、舌を噛んだ。
「いひゃいっ」
思わず口にしてしまう程だった。夢ではない証拠だ。
俺が唐突に舌を噛んで痛がったものだから、ミハさまは言葉を失ったようで、目を丸くしている。暫くの後 失笑し、声を上げて笑った。そんな笑い方をする彼は初めて見るが、いつものニヒルな微笑より――いや、それも勿論良いのだが――しかし、腹の底から笑っていらっしゃる方が、清々しくて素敵だと思う。
「気に入った」
口角を片方だけ、にっと上げて不敵に微笑まれ、立ち上がる。躰が、全体的に少し縮まれたように見えるが、照明が薄暗いのでそう感じるだけ、気のせいだろう。歩み寄られる脚、伸ばされた手の、筋肉が萎んだように見えるのも、きっと、気のせいだ。俺の顎を掴み上げ、寄せられる顔は、ミハさまなのだから。
唇と唇が触れ、瞳を閉じる。彼から口付けを貰えるなど、至福の言葉以外無い。唇を軽く吸われると、夢の様な幸福に気を失いそうだ。
胸をトクトク鳴らし、うっとりと吐息を漏らす。その間に、親指が歯に割って入り、口を無理矢理開けさせられた。
「み、みふぁはま……?」
何時に無く強引な彼に戸惑いながら瞼を上げる。すると、扇情的に舌を出す顔が視界に映り、慌てて目を瞑った。
何だ、何だ、下腹部が疼く。契りの時はいつも、〇〇を〇〇していると意識し、行為に立たせていたので、それ以外で感じるのは初めてだ。
手が、半ば無意識に自身の股座を触る。舌の烙印を舐められ、そこを握った。
全く自慢にならない本当の話だ、俺は、ミハさまに触れて頂いた事が無い。取り分けキスは、口内の細菌が感染すると嫌がられていた。ので、舌を入れて頂けるとは、天に召されてしまう。同時に、彼は間違いなくミハさまなのかと、小さな疑心が生まれた。
いや、似た者が存在するなど有り得ない。ミハさまは、唯一無二の御方なのだ。
俺を追放させ、自らは監視を欺く為、全く別の男になって逢瀬。良くある話ではないか。
――そうでもないな。
突き飛ばして確信した。目の前の男は、ミハさまではない。
感触を潰す様に掌を握る。彼の胸は、もっと、筋肉がはち切れんばかりに盛られている。
「お前は誰だ」
「ルシファー様です」パイモンが透かさず云う。くくっとルシファーが喉を鳴らした。
「騙されたと云わん表情 だな」
「その通りだ。お前は否定しなかった」
「訊かれていない事には答えようが無い」
嘲笑と取れる笑みを浮かべて腕を組み、ただ少しばかり背が高いだけの癖に、やたら上から見下ろす。ミハさまの顔で、その傲慢な態度が俺を苛立たせた。
「ベリアルよ。俺は、お前の親に何かしたかな」
「何の話だ」
「そう云う目で俺を見ている」ルシファーの手が頬に触れる。「美人が台無しだ」
静かな声で、抑揚の無い喋り方。鼻先に寄る顔はミハさまの表情そのもの。これは明らかなる煽りだ。
手を叩 き落とし、憎しみすら湧かせながら睨む。しかし、愛する人に似た顔を憎む事は出来ない。
「お前は何者だ」
ルシファーは覚めた瞳で俺の視線を受け止め、指の腹を上に向けてパイモンを指差した。
「云っただろ。ルシファーだ」
「ルシファー様です」パイモンが誇らしげに、だが、表情 は実に優しく穏やかに、大きい声(地声か)で復唱する。
「サタン様よ」金髪ボンテージ美女と絡み合う黒髪の女が云った。
「そう呼ぶ奴も居る」
ああ、とルシファー。序でにもうひとつと云わんばかりに、顎に手を当て、続ける。「ルシフェルと呼ばれていた事もあったな」
然りげ無く見せられた右手の甲に、焼痕がくっきりと残されていた。見えないが、俺の舌にあるものと同じだろう。罪人が押される烙印だ。
一人前の騎士になると、皇帝から名が贈られる。主に、神=皇帝に仕える騎士だから、ヘブライ語で『神の』と云う意味である『エル』で終わる名だ。恐らくルシフェルも皇帝より頂いた騎士の名だったのだろうが。「お前など知らないぞ」
ルシファーが俯き、くつくつ喉を鳴らして笑うと、口を開く。
「だろうな。プライドの高い皇帝が、寵愛した者に反逆されたなど、自らの恥を晒す様な武勇伝を公に云う筈が無い」
反逆罪で追放されたのか。神に等しい皇帝に逆らうのは、首を刎ねられて当然の罪。しかし生きている。烙印と云う確かな証拠がある以上、ルシファーの妄想ではないとすると、寵愛を受けていたと云うのは強ち嘘ではないかもしれない。
では「何故」誰もが欲しがり羨む(ミハさま一筋の俺はそうでもない)皇帝の寵愛を得ながら反逆を。訊こうとしたが、なあ、と遮られる。
「折角の宴が白けてしまう。こんな詰まらない話より、同郷仲良く愛を語り合おうじゃないか」躰で。片方だけ上がった口角が、下卑て見えた。丸で、崇高なるミハさまが下世話な事を云ったようで、顔が熱くなる。
「ふざけるなっ。俺は、まだ……!」
何故ルシファーがミハさまと瓜二つの顔をしているのか、その答えを聞いていない。と云おうとしたが、今度は女の声に遮られた。ここの連中は、なかなか、人の話を聞こうとしないようだ。
「まだ、初めて?」
金髪ボンテージ美女だ。俺の肩に、撫でる様に手を乗せ、肉感的な躰を擦り寄せる。麝香だろうか、甘い、独特な香りがした。今直ぐ抱き締め、例えばその豊乳の谷間に鼻を擦り付け、もっと嗅ぎたいと思わせる。俺は決してしないが、そんな匂いだ。
況してや乱れた後の上気した顔に、蕩ける様な潤んだ瞳で見上げられ、妖艶に頬に手を当てられれば、匂いと云う第一関門をクリアした者でも、我を忘れて押し倒し、豊乳を揉み拉いてピンと立つ乳頭にしゃぶりつく。果ては湿り気を帯びた薄い茂みに隠された秘所を、売女だとか罵りながら、荒らすのだ。俺は決してしないが。
心持ち腰を引き、彼女に何だと訊けば、指先で頬をなぞられ、耳に、セクシャルを感じさせる真っ赤な厚い唇を寄せられる。
「セックス」
熱い吐息をかけて云われ、辱められた気分だった。
「初ね」女は、くすくす笑う。「堕とし甲斐があるわ」
嫌らしい手付きで胯座を触られ、後退りすると、何やら柔らかいものが背中に当たる。それから首にやたら逞しい腕が絡み付き、ハスキーな声がした。
「アスモデウス。1人で楽しむなんてダメよ」
横を向けば、金髪ボンテージ美女アスモデウスと戯れていた黒髪の女と目が合う。
「本当に綺麗ね。妬けちゃう」
んふっと笑いを零し、尻を下から掬い上げる様に撫で、こちらも同じ事を訊ねてきた。
「ねぇ、初めてなの?」
これは痴女責めと云う拷問の一種か。美女2人(黒髪の女は男臭がするが美人)の手に前を後ろを弄 られる様 を、愛する人の顔をした男に見られる恥辱。更に、俺のズボンを勝手に下げ、尻を開く黒髪の女の言葉が、羞恥心を深く抉った。
「ここは雌の匂いがするわよ」
カッと顔が燃える様に熱くなり、2人を振り払う。あん、と無駄に艶かしい声を上げ、黒髪の女が倒れた。そのMの字に開かれた股の間に男の象徴を見付け、目を逸らす。
「すまない。だが、貴方も失礼だ」
上げたズボンを握り締める。清々しい笑い声に次いで憎らしくも憎めない声が云った。
「振られたな、レヴィ」
後ろ襟を掴まれ、強く引っ張られると、リッチなソファーに投げられる。尻が吸い込まれる様に落ちた俺の上を、背凭れに手を突いたルシファーが覆う。
「お前、鶏姦で堕天したのか」
追放される事を、騎士の間では『天の国から堕ちる』の意味で堕天と云っている。インモラルな男にしか見えないが、元は間違いなく同国の騎士だ。しかも、皇帝の寵愛を受けていたとなると、ミハさまと同じ騎士長の座に居た可能性が高い。そんな者が何故、反逆罪で追放されてサタンと呼ばれ、破廉恥極まりない宴などしているのか。気にはなるが、今はどうでも良い事だった。
「相手は如何した。一緒じゃないのか。まさか、あの筋肉達磨がくたばる筈は無いよな」
顔を覗き込む奴の、口角は、さも愉快げに上がっている。
「誰の事を云っている」
俺が鶏姦をした相手、筋肉達磨……心当たりが全く無い。対してルシファーは、おいおい、と嘲笑した表情を一変して無にし、抑揚の無い静かな声を出す。
「もう私を忘れたか」
最早『物真似』や『似ている』と云うレベルではなく、『本人そのもの』の域だった。だからこそ余計に、頭に血が上り、ルシファーの胸倉を掴む。
「ミハさまを愚弄しているのか!」
ルシファーは、顔を突き合わせて睨む俺を、覚めた眼で見下ろし、ミハさまの表情を作ったその顔に、フッと冷笑を浮かべた。
「その『ミハさま』に裏切られ、お前1人が堕天したんじゃないのか」
見透かした物云いに、不覚にも怯んだ。
「ミハさまは、あれだ、騎士長だから、な。俺とは……」違う……尻下がりに小さくなる声。
視界が、奴の目から鼻、口と移り変わり、決して筋肉が無い訳ではないが、彼に比べると貧弱に見える胸を映す。
「要は裏切られたんだろ」
俺は首を横に振った。
「そうではない。きっと、何か、お考えが」
「無いね」
俺の手を払い除けて即答したルシファーを見上げ、食い下がる様に言葉を返す。しかし、それに力は無かった。
「お前には解らないのだ。俺達は……愛し合っていた」
そうあって欲しいと云う願いに近い。そんな気持ちも、ルシファーは悪魔が如く打ち砕くのだ。
「アイツの事は良く知っている。そんなものは、無い。アレは己しか愛さない人間だ。愛する己の為なら、慕う者でも平気で堕とす」
冷淡に言葉の刃を突き刺すルシファーに、最後に見たミハさまの冷たい表情 が重なり、込み上げる。何故この男に云われなければいけないのかと云う怒りと、選りに選って愛する人と同じ顔をした男に云われる悲しみ。混ざり合い、目の前が滲んでいく。
「解っている……っ!」
それでも否定する強さが俺には無かった。本当は気付いていたのだ。ミハさまが、俺を愛してくださっていない事に。肌を重ねる度、氷に抱かれている様な冷たさに。愛すれば愛する程空しくなる心を、愛されていると云い聞かせて見ないようにした。それで良かったのだ。鶏姦が罪になる国で、2人の関係に、お前は愛されていないと口を挟む者など、当然居なかったのだから、俺は心置きなくミハさまと愛し合えた。それが、どうだ。1人の男の言葉で、目隠しが取れてしまった。
俺の頬を一筋、伝う涙を指に取り、舐めると、その当人は静かに口を開く。
「哀れだな」
ミハさまの真似ではなく、ルシファー自身の声だった。
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