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外伝~犬のお話~
私の一番古い記憶は、ごわごわとした茶色い尻尾と、その下の薄汚れた白っぽい毛で覆われたお尻です。
みすぼらしいけれど安心感のある母のそのお尻に、私はいつもくっついて歩いていたように思います。
とはいえ、山には蛇やら虫やら面白い生き物も多くて、ついついそれを追いかけてしまうのが子犬の性というものです。
気付いた時には母のお尻はどこにも見えなくなっていました。
母とはぐれて何日も山をさまよい、空腹に倒れそうになったとき、丸々と太った野兎が目の前を横ぎりました。
狩りなどしたことはありませんが、母が野兎を獲って食べていたことはよく知っています。
無我夢中で追いかけたところ、突然野兎が高く宙に跳ね上がりました。
大暴れする野兎は、逆さになってぶらんぶらんと宙に揺れています。
きゃんきゃんと吠えてみますが、野兎はちっとも降りてきません。
すると私の声を聞いたのか、背後に大きな獣が現れました。
獣はひょいと私を持ち上げました。食われる恐怖に身の毛がよだちました。
しかし、その獣は私を食べようとはしませんでした。
「おめぇの獲物を横取りしてしもうたんだの」
暴れる野兎を手早く絞めたその獣は、肉の一部を私にくれました。
それが、人間の主 との出会いでした。
主は主です。名など知りません。
私と主は一緒に暮らすようになりました。
主が山で罠を張り、私がその罠へ獣を追い込みます。
「おめぇのおかげでよう獲れるわ」
狩りが成功すると、主は大層喜びました。
そしていつも「愛 い奴じゃ」と言って、少し痛いくらいの力で頭を撫でてくれました。
寒い夜には主と一緒に布団で眠りました。
主はいつも、「おぉ寒」と言いながら私を抱きかかえるように体を縮こまらせました。
そしてじんわり温くなってくると、また「愛い奴じゃ」と言って頭や背中を撫でてくれました。
そういう時は、狩りの時よりも優しい力で撫でてくれて、ぎゅうと抱きしめてくれたりもしました。
私はとても幸せでした。
役割があって、寝床があって、私を撫でてくれる主がいました。
主は私にとって全てでした。
そんな主がいつどうやって≪きよ≫と出会ったのかは知りません。
どこへ行くのも一緒だった私を置いて出かけることが増え、そんな時はいつも≪きよ≫のにおいをさせて帰ってきました。
私はそのにおいが大嫌いでした。山にはない、くさくて苦そうなにおい。主を私から取り上げるにおい。
私がそのにおいの正体を≪きよ≫だと知ったのは、主がその女を≪きよ≫と呼んだからです。
雪の降る寒い日でした。
狩りの道具を持たずに家を出た主に連れられ、いつもは通らない道を行きました。
初め私と主の足跡だけがついていた雪道が、どんどん足跡だらけになって、しまいには家も人も沢山の、うるさくて臭い場所に出ました。
「ここが今日からおめぇの家だべ」
連れて行かれたのは、大嫌いなあの≪きよ≫のにおいだらけの家でした。
「あんた、待ち遠しかったわぁ」
現れたのは、顔を臭いもので真っ白に塗った、気味の悪い人間の女でした。
「きよ」
臭くて気味が悪いのに、主はとても嬉しそうな顔と声でその女に呼びかけ、ぎゅうと抱きしめました。
主が、≪きよ≫をぎゅうとしている。
ぎゅうとされるのは私のはずなのに。
「ここは大店 だで、おめぇを板の間に上げるわけにはいかんでな。ここから動いてはならねぇぞ」
主は≪きよ≫と連れ立って、大きなお屋敷の奥に消えていきました。
心細かったですが、動いてはいけないと言われたので、筵 の上にじっと座っていました。
炊事場なのか、二人の年寄り女と子供のように若い男が忙しげに歩き回っており、嗅いだことのないおいしそうなにおいがしてきます。
でも、我慢、我慢です。
狩りの時も、主に獲物を分けてもらうまで、きちんと待っています。
「奥様も物好きだでなぁ。あんなどこの馬の骨ともしれん男を婿にとるなんぞ、大旦那さんが生きとられたら勘当もんじゃ」
「さんざ町の男衆を誑 かしてきたで、山男が目新しかったんじゃろ。精も強そうだで」
二人の年寄りは手を動かしながらもずうっと低い声で話し続けています。
主はまだ戻ってこないのでしょうか。≪きよ≫と長くいると、またあのくさいにおいがついてしまいます。
おいしそうなにおいの誘惑に耐えてずっと座って待っていたのに、若い男が竈 の火を落としても、主は戻ってきませんでした。
今夜は冷えます。早く布団で主の暖にならないといけないのに。
まだかまだかと気を揉んでいると、しんとした家の奥から≪きよ≫の声が聞こえてきました。
高かったり低かったりするその声は、苦しんでいるようにも喜んでいるようにも聞こえます。
耳をぴんと立てて声のする方に傾けると、主の低い声も聞こえました。
「愛い奴じゃ」
呼ばれた、と思いました。
急いで駆け出し、声の聞こえた方、主のにおいのする方へ走ります。
そこらじゅうにくさい≪きよ≫のにおいがして道がわからなくなりますが、鼻を板の間に押し当てて嗅ぎ、耳をそばだてて主を探します。
そしてたどり着いた真っ暗な部屋では、あるじと≪きよ≫が裸で互い違いになって折り重なっておりました。
互いの顔を相手の股間に埋め、熱心に舐 っているようです。
あまりの熱心さに、傍に私がいるのにも気づいていない様子でした。
「あぁあんた、あたしもう…」
≪きよ≫が苦しげな声を出し、足で布団を掻きました。
「愛い奴じゃ」
主!
呼ばれて嬉しくて、主に飛びついて顔を舐め回しました。
寂しかったです。ここはくさいです。早く山へ帰りましょう。
「ぎゃあああっっ」
耳をつんざくような≪きよ≫の叫び声が聞こえたかと思うと、お腹にどうっと衝撃が走り、私の体は吹っ飛ばされました。
固い物に背中がどんと当たり、息ができなくなりました。
「大丈夫かきよっ。驚いたべなぁ。こいつが儂の言いつけを破ることなんぞこれまで一度もなかったんに……」
主はおろおろしながらも、ひゅうひゅう息をする私ではなく≪きよ≫を心配しているようです。
「だからこんな汚い犬をうちに入れるなんて嫌やったんやわ!汚らしい!はよぅどこかへ遣って!だいたい猟なんてもう…」
≪きよ≫のきんきんした声が段々遠くなります。
苦しい、苦しいです。お腹も背中もとても痛いです。息ができないのです。助けてください、主…。
そこで私の目の前は暗くなりました。
次に目が覚めた時には、私は外にいました。首には紐が巻きつけられ、引っ張っても抜けません。
主!どこですか!
お腹と背中の痛みも忘れ、わんわん呼びます。
主!主!
「うるさい!」
ばしゃぁっと、年寄りに水をぶっかけられました。
びっくりして一瞬黙りますが、すぐにまた主を呼びます。
わんわん。わんわん。
「うるさいって言ってるだろこの駄犬!」
ぎゃうんっ
何か固い物で頭を殴られました。痛い。痛いです。でも負けません。狩りをする犬ですから、少しの怪我くらい我慢できます。
わんわん。わんわん。
ここはくさいし、痛いことをされるし、嫌です。森へ帰りましょう。主、主、早く来て。
一晩中呼びましたが、結局主は来てくれませんでした。
朝にはすっかり疲れ切り、声を出す力も湧かなくなっていました。
頭もお腹も背中も、どこもかしこも痛くて辛かったです。
でもそれ以上に、寒さがやたらとこたえました。
積もった雪はとても冷たくて、主の「おお寒」という声が聞こえてくるようです。
早く行って、私が暖めてあげなければいけないのに。
すっかり雪はやんでいたので、私の頭から流れた血を吸った雪は、いつまでもそこにありました。
雪の上に腹ばいになって、私はただその染みを、ずっと見ていました。
その日から、主は私の前に姿を現さなくなりました。
すぐそばの家の中から声は聞こえてくるのに、私のところへは来てくれません。
初めは私に気付いていないのかと思ってわんわん呼んでみましたが、その度に家の中から誰かしら出てきて、殴られたり蹴られたりするだけでした。
あんまり痛いので、私は主を呼ぶことをすっかり諦めてしまって、ただ耳と鼻で主の気配を追いました。
黙ってじっとしていれば、痛いことはされませんでしたから。
若い男が運んでくる飯には、時々かすかに主のにおいのする米が混ざっていました。
きっと主の食べ残しなのでしょう。
山にいた時も、こうして主と分け合って米を食べたものです。
かつての生活を思い出せるそれだけが、私の日々の楽しみでした。
夜になると辺りがしんとするので、私の耳には主と≪きよ≫の声が度々聞こえてきました。
あの時と同じように、高かったり低かったりする≪きよ≫の声。
そして、主の「愛い奴じゃ」という声。
私の耳はぴくりと動きますが、あの声はもう私を呼んでいるのではないとわかっています。
私はもう「愛い奴じゃ」ではないのです。今は≪きよ≫が「愛い奴じゃ」なのです。
どうしてでしょうか。≪きよ≫の方が私より、姿かたちが主に似ているからでしょうか。
布団の中でぎゅうとすると、ごわごわした私より、つるつるの≪きよ≫の方が暖かいのでしょうか。
股間をお互いに舐めあうのが大事なのでしょうか。それくらい私にだってできます。
もう一度山に行けば、私が主の役に立つことを思い出してもらえるはずです。
早く狩りに行きましょう。
大きい鳥を仕留めてみせます。丸々と太った兎の巣穴を見つけてみせます。
熊が出たら命がけで主を守りましょう。
だからどうか、私を狩りに連れて行ってください。
きっとお役に立ってみせます。
だからどうか、もう一度私の頭を撫でてください。
それからどれほどその場に繋がれていたでしょう。季節が幾度も巡ったように思います。
ある日の午後、食事の時分でもないのに若い男がやってきて、私の首に結ばれた紐を外しました。
「旦那様は今晩帰って来んさらんで、あの汚い犬ば潰して今晩の鍋にしろと奥様が言うておんさる。おめぇ食われるど。はよぅ逃げぇ」
言うなり、草履の足で思い切りお尻を蹴り上げられました。
きゃいん。
悲鳴を上げて、思わず大路へと走り出します。
ここへやってきて以来一度も歩いたことのない賑やかな道は、右も左もわかりません。
けれど、一つだけ知っているにおいがありました。
ほんの微かな大好きなにおいを頼りに、知らない道をひた走ります。
たどり着いた家を覗き込むと、茶をすすっている一人の年寄り女がいました。
主の姿は見えないのですが、においはとても強いです。
年寄り女に見つからないようこっそり忍び込み、主のにおいの強い階段を見つけました。
すると、上の階から主の呻き声と女の声が聞こえてきました。
女の声は、≪きよ≫もよく上げていたあんあんという甲高い調子ではありましたが、≪きよ≫の声ではありません。
「愛い奴じゃ。ほんに愛い奴じゃ」
主の声も聞こえてきます。よく知った「愛い奴じゃ」です。
思い返してみると、久しくあの家では聞いた覚えがありません。
そういえばここのところ、≪きよ≫の甲高い声も聞こえてきませんでした。
そうっと階段を上がって、主と女の声がする部屋を覗きます。
するとやはり、主と女が裸でくんずほぐれつしておりました。
私はもう部屋に飛び込んだりはしません。すとんと憑き物が落ちたように理解しました。
主の「愛い奴じゃ」はどんどん変わっていくのです。
私から≪きよ≫へ、≪きよ≫からあの女へ。
しばらくすると、あの女からまた違う相手に変わるのでしょう。
私は静かにその場を後にしました。
なまじ主の近くで繋がれていたものだから、今の今まで気づかなかったのです。
私はもう、とっくに主に捨てられていたのでした。
どんなにわんわん呼んでも、静かに待っても、主が私を「愛い奴じゃ」と撫でてくれることは二度とないのです。
いっそのこと、どこか遠くへ捨てに行ってくれればよかったのに。
お前はもういらないのだと言ってくれれば。
主の声や気配に耳をすまし、残り香のする飯だけを楽しみに過ごしたいくつもの春も夏も秋も冬も。
いつかまた、狩りに行くぞと声をかけてもらえるはずと待ち続けたあの日々も。
私は既に捨てられていたのです。
主に捨てられた犬は、どうすればいいのでしょうか。
盗るなり獲るなりして食べて、ただ生きていけばいいのでしょうか。
もう誰も傍にいてくれないのに。
ひとたび主を得た私には、誰の役にも立てず、誰にも褒めてもらえずただ生きることは、途方もないことのように思われました。
行くところも帰るところもなくて、河原で何日も丸まって過ごしました。
腹は減っているのですが、やはり市場の物を盗るのは気が引けます。
もう主に怒られることはないのに、言いつけは身に沁み込んでしまっておりました。
さりとて、繋がれ通しだった足腰は萎え、鼠を獲ることも叶いません。
けれど、生きていかなければならないのです。
生きているから、生きていかなければ。
掘り返した土の中に見つけた蚯蚓 を食べて、飢えを凌ぎました。
生臭さにえずきながら、かつて主と共に食べた野兎の贅沢な味を懐かしく思い出します。
私は山に帰ることにしました。
主がいなくても、せめて幸せな思い出のある場所で余生を送りたくなったのです。
足取りも重く、かつて主とやってきた道をとぼとぼと戻ります。
少し歩いては休み、蚯蚓や虫を口にして、また少し歩いて、朧になった記憶の道を辿ります。
けれど、山はこんなに遠かったでしょうか。
どこかで道を間違えたのか、それとも帰る道など初めから無かったのか、歩けど歩けど懐かしい山にはたどり着きませんでした。
目は霞み、足腰に力が入らず、もう真っ直ぐに歩けません。
土を掘り返して蚯蚓を探す気力ももうありませんでした。
とさりと乾いた音を立てて田舎道に倒れ込みます。
いよいよこの世ともお別れのようです。
まったく、つまらぬ一生でした。
もし次の世でも犬と生まれたならば、今度は自分で主となる人を探そうと思います。
そして主と見定めたら、その人に勝手について行くことにします。
拾われなければ、捨てられることもないのですから。
もう浄土が近いのでしょうか。横たわった鼻先に、花の蜜のような得も言われぬ甘い香りが漂ってきました。
乾ききった鼻がひくひくと動きます。
私は最後の気力を振り絞り、這うようにして甘い香りの源へ向かいました。
花でしょうか?食べ物でしょうか?嗅いでいるだけでふわふわととても幸せな気持ちになってきます。
きっと仏様が私を憐れんで、浄土への道しるべを示してくれているのでしょう。
この香りを辿れば、もう悲しいことも苦しいこともないところへ行けそうです。
仏様、ありがとうございます。
さようなら、主。私はこの香りと共にいきます。
けれど、できたらあと一度だけ、頭を撫でてほしかったです……。
「おぉ犬よ戻ったか。見回りご苦労じゃの」
桃太郎が黄鬼に跨ったまま声をかけますと、犬が尻尾を千切れんばかりに振って飛びついてきました。
「わかったわかった。後でお前にも甘露を分けてやるから、しばし待っておれ」
そう言って押し留めると、返事をするように一声わんと吠え、早くくれとばかりに桃太郎の摩羅をぺろぺろ舐めます。
「あぅ…これ、そんなにしては甘露が出てしまうというに」
桃太郎は犬を叱りましたが、黄鬼は腰を突き上げながら「モモタロサン ヨロコンデイマスヨ イヌサン エライ エライ」などと褒めそやしました。
桃太郎が子種弁当として持参した、もとい勝手についてきた犬ですが、今ではすっかり鬼ヶ島の番犬が板についております。
鬼たちも犬を大層可愛がり、同時にその優れた耳を鼻を大変頼りにしておりました。
桃太郎にとっても飢え切った腹を救ってくれた犬の子種は忘れがたくありがたい物であり、また共に暮らす内、素直な喜びを一心に現す犬の様子をかわいらしく思うようになっておりました。
出会いの初めこそ、甘露の香りに誘われてやってきて、昏倒した桃太郎の摩羅を断りもなくしゃぶっていた困った奴ではありましたが、今となってはそれも縁 よと懐かしく感じます。
「ア イヌサン ココニイマシタ。 ホネ イリマスカ?」
食事の準備をしていた青鬼がやってきて骨を見せると、犬は喜んでその場でくるくると回っています。そして放り投げられた骨を跳び上がって空中で捉えると、得意げに桃太郎のところへ見せに来ました。
「なかなか器用よのぅ…んっ」
桃太郎は艶かしく腰と息を弾ませながらも、骨を咥えて目を輝かせている犬の頭を撫でてやりました。
すると犬は嬉しくてたまらないという様子で鼻息を荒くし、尻尾を振るだけでは足りないのか四つ足でじたばたと地団太を踏んでおります。
「たかが撫でられるだけでそんなに嬉しいのか。単純なやつよ」
呆れながらも更に背まで撫でてやると、犬はもっと撫でてくれといわんばかりに、骨を咥えたまま腹を見せて転がりました。更に、腹を見せるだけでは飽き足らず、白くて柔らかい毛に覆われた腹と胸をこれでもかというほど反らし、尾で地面を掃きながら、背中で地面を擦ってじりじりと寄ってきます。その様子がおかしくて、桃太郎も黄鬼も思わず笑ってしまい、いやらしく動かしていた腰も止まってしまいました。
「ほんにおかしい、愛い奴じゃ」
桃太郎が明るく笑いながら言うと、犬は腹を見せたままじたばたと悶えております。その身に留めておけないほどの喜びが犬の全身から溢れ出すようでした。
「ウイヤツ トハ ナンデスカ?」
通りがかった赤鬼が、不思議そうに首を傾げます。健気で可愛らしいと説明してもわからんだろうなと思った桃太郎は、こう教えてやりました。
「ずっと傍におってほしいという意味よ」
めでたしめでたし。
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