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かりそめ(1)

「……伊織……」  夕飯の後片付けをちょうど終えて、水道の水を止めたところで、後ろから柔らかい声に呼ばれた。  少しぎこちなく感じるその呼び方が、なんとなく擽ったくて、そして嬉しいと思う。 「はい」  返事を返して振り向くと、教授は台所の入り口で、淡いグリーンの手染めの麻のれんを片手で軽く上げて顔を出した。  のれんの裾についている小さな鈴袋がチリン……と、可愛らしく音を立てる。  まだ少し濡れた長めの前髪が一房下りているせいなのか、妙に色っぽく感じてドキリと心臓が鳴る。  でも、ドキリとしたのはそのせいだけじゃないと、のれんをくぐって入ってきた教授の姿ですぐに気付き、思わず見惚れてしまう。  夏になってから、家で作業をする時にはもう定番のように着ている作務衣とはやっぱり全然違うと思う。  湯上りの身を包んでいるのは、濃いグレーの地に、控え目に入った蛇の目傘の柄の浴衣。  注染と呼ばれる技法で描かれたそれが、教授の手によるものだと、大学に入って四年間ずっと彼を見てきた僕にはすぐに分かる。  授業の合間に染織コースの工房へ足を運んでいるのは知っていた。  教授は毎年新しい浴衣を作る。 「君も汗を流しておいで」 「……はい」  近付いてきた教授の少し開き気味の合わせから覗く肌にさえ、顔が熱く火照ってしまうのを隠そうと僅かに目を逸らせば、教授はたしなめるように、僕の顎にそっと指をあてがって目を合わせた。  柔らかく落とされた口付けに、余計に顔が熱くなってしまう。 「伊織も早く入っておいで。君の浴衣も用意をしてあるから、風呂から出たらそれを着なさい」 「え? 僕も浴衣を?」  驚く僕を優しい眼差しで見つめながら、教授は頷いた。 「気分だけでもと思ってね」  ああ、そう言えば今夜は隣の町で花火大会があると言っていた。  教授に行ってみるかと誘われたのだけれど、人混みが苦手だからと僕が断ってしまったんだ。  花火の音を聞くと、まだ少しだけ胸が騒ついて苦しくなってしまうから。  教授にはそのことは言ってない。なんでも話しておきたいと思う一方で、無理して話すこともないと思う。  教授が僕に、弟の潤さんのことを全部は話さないのと同じように。 「お風呂、入ってきますね」  そう言ってお返しのキスをして、教授から身体を離し、僕は風呂場へと向かった。

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