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かりそめ(80)最終話

 薄く開いている窓の隙間から、そよ風が暖かい空気と春の匂いを運んでくる。  いつの間にか画用紙の上に陽だまりができていて、ぽかぽかとした陽気に少しだけ眠くなってきて……。ふと顔を上げると、愛しい人がそこにいて、目が合った瞬間に、ふわりと優しい笑みを零してくれる。  その笑顔に“大好き”って気持ちが膨らんで、  ――『……キスしたい』  そんな不埒な想いで一杯になってしまう。  すると、教授の瞳がそれに応えるように、色を含んだ目くばせを返してきて、  ――『あとで』  と、声には出さずに、唇がそう動く。  僕は思わず、教授から視線を逸らすようにして、窓の外を見る振りをした。 (――どうして分かっちゃったんだろう……?)  そんなに物欲しげな顔をしていたんだろうか。  でも、恥ずかしいけど、なんとなく嬉しくて。  カズヤさんと宅間さんが、言葉を交わさなくても瞳で通じ合っていたように、僕と教授の間にも、二人だけに分かるような、そんな雰囲気が漂ったような気がして。  顔が熱く火照るのは、きっとこのぽかぽかした陽だまりのせい。  やっぱり眠いな……と思いながら、窓に顔を向けたまま頬杖をつく。目を閉じると、カタンと小さな音が聞こえて、教授がそっと近づいてくる気配がした。 「……伊織? 眠いのか?」  もうすっかりぎこちなさの取れた名前の呼び方に、もっとぽかぽかと暖かくなる。  肩に置かれた優しい手の温もりに、ゆっくりと顔を上げた。 「……侑、さん」  僕は、二人きりの時しか教授を名前で呼んでないからか、まだちょっとだけ照れくさくて、その呼び方はぎこちなさが残ってる。  でも、きっとすぐ、知らない間に普通に呼べるようになっていく。――二人で寄り添って大切な日々を過ごしているうちに、自然に。  甘い瞳と視線が絡み、教授が屈んでそっと唇が触れて、そしてすぐに離れた。  もっと欲しくて上目遣いに見上げると、ふわりと笑ってもう一度唇を重ねてくれる。  強請るように唇を開けば、互いの舌が甘く絡まり合う。 「……あとで、って、言ったくせに」 「“すぐに”は、しなかっただろう?」  キスの合間に冗談混じりに言い合って、笑い合って、また唇を重ね合わせて、もっと深いキスをして。  最初は――――  たったひと時でいいから、教授に愛されるただひとりの人になりたいと願っていた。  たったひと時でいいから、僕は雨宮潤になりたいと願っていた。  潤さんの代わりでいいから、ずっと傍に居させてと願っていた。  かりそめでもいいからと……、そう思っていた。  だけど今は……教授を独り占めにしたくて、僕はどんどん欲張りになっていく。  いつも、いつまでも、二人一緒にいたい。  ほんのひと時だけじゃなく、誰かの代わりでもなく。  これからもずっと、気が遠くなるくらいずっと、貴方と一緒にいたい。 「ずっと、侑さんの傍にいてもいい?」  不安だからじゃなくて、大好きなあの言葉を聞きたくて。 「当たり前だ……」  教授はいつもそう応えてくれる。  そして、あのプロポーズみたいな言葉を僕にくれる。 「俺は、伊織とずっと一緒に生きていきたい」  何度も何度でも、そう言ってくれる。  ――『伊織が世界で一番幸せになること』  カズヤさんが言っていた願いは、もうとっくに叶ってる。 「侑さん……」 「ん?」と、小さく訊き返す教授に、もう一度とキスを強請った。視線で想いを伝えながら。  ――僕は今、世界中の誰よりも幸せだよ……。  優しく目元を緩ませて、黒い瞳が甘く応えてくれる。  ――俺もだよ……。  ぴったりと身体を寄せ合って、唇を深く重ねると、ぽかぽかな幸せの陽だまりに、二人一緒に包まれた。  『Aquarius』end  3.かりそめ  / 2021/12/12  + to be continued → →Extra:桜(仮)

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