138 / 138
かりそめ(80)最終話
薄く開いている窓の隙間から、そよ風が暖かい空気と春の匂いを運んでくる。
いつの間にか画用紙の上に陽だまりができていて、ぽかぽかとした陽気に少しだけ眠くなってきて……。ふと顔を上げると、愛しい人がそこにいて、目が合った瞬間に、ふわりと優しい笑みを零してくれる。
その笑顔に“大好き”って気持ちが膨らんで、
――『……キスしたい』
そんな不埒な想いで一杯になってしまう。
すると、教授の瞳がそれに応えるように、色を含んだ目くばせを返してきて、
――『あとで』
と、声には出さずに、唇がそう動く。
僕は思わず、教授から視線を逸らすようにして、窓の外を見る振りをした。
(――どうして分かっちゃったんだろう……?)
そんなに物欲しげな顔をしていたんだろうか。
でも、恥ずかしいけど、なんとなく嬉しくて。
カズヤさんと宅間さんが、言葉を交わさなくても瞳で通じ合っていたように、僕と教授の間にも、二人だけに分かるような、そんな雰囲気が漂ったような気がして。
顔が熱く火照るのは、きっとこのぽかぽかした陽だまりのせい。
やっぱり眠いな……と思いながら、窓に顔を向けたまま頬杖をつく。目を閉じると、カタンと小さな音が聞こえて、教授がそっと近づいてくる気配がした。
「……伊織? 眠いのか?」
もうすっかりぎこちなさの取れた名前の呼び方に、もっとぽかぽかと暖かくなる。
肩に置かれた優しい手の温もりに、ゆっくりと顔を上げた。
「……侑、さん」
僕は、二人きりの時しか教授を名前で呼んでないからか、まだちょっとだけ照れくさくて、その呼び方はぎこちなさが残ってる。
でも、きっとすぐ、知らない間に普通に呼べるようになっていく。――二人で寄り添って大切な日々を過ごしているうちに、自然に。
甘い瞳と視線が絡み、教授が屈んでそっと唇が触れて、そしてすぐに離れた。
もっと欲しくて上目遣いに見上げると、ふわりと笑ってもう一度唇を重ねてくれる。
強請るように唇を開けば、互いの舌が甘く絡まり合う。
「……あとで、って、言ったくせに」
「“すぐに”は、しなかっただろう?」
キスの合間に冗談混じりに言い合って、笑い合って、また唇を重ね合わせて、もっと深いキスをして。
最初は――――
たったひと時でいいから、教授に愛されるただひとりの人になりたいと願っていた。
たったひと時でいいから、僕は雨宮潤になりたいと願っていた。
潤さんの代わりでいいから、ずっと傍に居させてと願っていた。
かりそめでもいいからと……、そう思っていた。
だけど今は……教授を独り占めにしたくて、僕はどんどん欲張りになっていく。
いつも、いつまでも、二人一緒にいたい。
ほんのひと時だけじゃなく、誰かの代わりでもなく。
これからもずっと、気が遠くなるくらいずっと、貴方と一緒にいたい。
「ずっと、侑さんの傍にいてもいい?」
不安だからじゃなくて、大好きなあの言葉を聞きたくて。
「当たり前だ……」
教授はいつもそう応えてくれる。
そして、あのプロポーズみたいな言葉を僕にくれる。
「俺は、伊織とずっと一緒に生きていきたい」
何度も何度でも、そう言ってくれる。
――『伊織が世界で一番幸せになること』
カズヤさんが言っていた願いは、もうとっくに叶ってる。
「侑さん……」
「ん?」と、小さく訊き返す教授に、もう一度とキスを強請った。視線で想いを伝えながら。
――僕は今、世界中の誰よりも幸せだよ……。
優しく目元を緩ませて、黒い瞳が甘く応えてくれる。
――俺もだよ……。
ぴったりと身体を寄せ合って、唇を深く重ねると、ぽかぽかな幸せの陽だまりに、二人一緒に包まれた。
『Aquarius』end
3.かりそめ / 2021/12/12
+ to be continued → →Extra:桜(仮)
ともだちにシェアしよう!