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かりそめ(79)

 大学に入学してからずっと、教授は僕を描いていた。 ――『……君は潤じゃないと自分に言い聞かせるために、描いて、描いて、描き続けた。二階のアトリエにも君を描いたスケッチブックが何冊もある』  それはスケッチだったり、デッサンだったり、時には水彩の色を載せて。何枚も、何枚も。  だけど今はもう、教授が潤さんと僕を重ねて見ることはない。  “Aquarius”を描きあげて、個展を開いて――――初めて身体を重ねたあの日から……。 「そんなに、いい顔してました?」  なのに、僕を描いたスケッチブックは、今でも増え続けている。すごく早いペースで。 「ああ……。今までで一番いい顔してる」  今、教授の瞳に映っているのは、僕。教授は僕だけを見てくれている。  “Aquarius”は、このアトリエの壁に飾ってある。  澄んだ青の水に溶けてしまいそうに切なく儚いガニュメーデースは、教授が潤さんを忘れたくなくて描いた絵だったのに、だけど、そこには僕の存在が込められていた。  ――『心の大半を占め始めていた君の存在を、無意識に描いていた』  そう言ってくれたことが嬉しかった。  今は教授は、この絵の中に潤さんを見ることはなくったと言う。  潤さんは、あの小さな仏壇に飾ってある写真と、教授の心の中にちゃんといて、これからもずっと忘れることはないだろう。   「そのまま、続きを描いて……」  そう促されて、僕は机の上のスケッチブックに視線を戻して鉛筆を滑らせる。  まだ見たことのない満開の桜の、光と影、花びらや枝や幹の質感まで、ゆっくりと時間をかけて描き込んでいくことにした。  だって、全身に注がれる穏やかで優しい視線が心地良くて、このままずっと見つめられていたい。 「……鈴宮の家の桜、やっぱり見に行ってこようと思います」  視線をスケッチブックに落としたまま話しかけると、「ああ、そうだね。それがいい」と、優しい声が返ってくる。  ちょうど桜の咲く頃に藤野先生の家で、僕の進学祝いと慎矢の就職祝いをしようという計画がある。  その時に、藤野先生の家に行く前にちょっと寄ってみよう。  生まれてから十七年間暮らした家。あの頃の事は全部忘れない。憶えていたい。だけど、僕も前に進みたい。  だから、もう誰もいないけれど、あの家に、ちゃんとお別れを言いたいんだ。  ――“ありがとう”……って。  今ならきっと……そう言えるような気がして。

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